津和野の鷺舞神事−鹿足郡津和野町−
 
鷺舞1
鷺舞2
鷺舞3
還幸道中
 今年は令和元年。多くの人がめでたさもある鷺舞の見学にはるばる津和野に寄ったようだ。
 津和野・弥栄神社の祇園会。7月20日神輿は御旅所へ渡御、27日弥栄神社へ還幸。鷺舞は神輿に供奉し20日と27日に町内の要所で舞われる神事芸能である。
 還幸祭の27日、鷺舞を見学。例年通り当屋前、旧藩時代の城代家老邸前、旧藩邸前など7箇所で鷺舞の奉納が予定されていた。
 いざ津和野へ向ったが舞い始めの午後3時、あいにくのにわか雨。行道は中止。急遽、日程変更になり会場は当屋邸(町民センターの講堂)。要所要所で鷺舞のひと踊りに期待していた観客は拍子抜けの態であったが、午後3時と同30分の2回、鷺舞は当屋邸で上演された。
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 講堂の右側出入口方から鷺舞の一行が入場。先払・警護・当頭(とうがしら)、警護、棒振、鷺、鞨鼓(かつこ)、笛、鼓、鉦、太鼓、歌い手の順。鷺は雌雄一対。雄はくちばしを開け、メスは閉じている。桐・竹の芯に白布を巻きつけ綿をつけて頭とし、大中小39枚の桧板を羽形に組んで羽として舞人が被って舞う。装束は白地の麻に鷺の羽模様を染めた長着に、緋色のたっつけ袴を白モスの帯で締め、緋の脚絆、白足袋藁草履姿。色の塩梅がよく簡素で実に美しいものである。今日、いくつかの地方で鷺装束を伝えているが津和野のものはその白眉であろう。加えて鷺の頭から羽先までゆうに2メートルもあろうか、これだけ大きく、重量のあるつくりものをささえ、舞う者の体力もまた格別なもの。体格のよい若者を見出すのもまた鷺舞の伝承上、頭屋の大仕事と思われる。棒振りは茜の筒袖、股引をつけ、頭はシデハナ。棒の両端にシデを回し、鷺役が足をあげながらめぐる。鞨鼓は腰にそれをつけ、派手な袴にシデを垂らした烏帽子姿。身をかがめながら鼓を打つゆっくりとした所作は道化に通ずるところもあるが、この芸能が田楽の流れを汲んでいることがよくわかる。
 神輿の行列に笠鉾を欠いていたように思うが、原型はどうだったのか。祇園祭礼絵巻には立派な笠鉾が描かれているので、いつのころか廃絶に至ったようである。それらがそろうと風流芸の伝統がよみがえりこの津和野の祇園会に一層の華をそえると思うのだがどうだか。 
鷺舞の歌
 鞨鼓の後ろに立っているのは歌い手。鷺舞の歌中、歌詞はかささぎが首題であるにもかかわらず、つくりものはなぜ鷺(舞)なのかという疑問が湧く。
 津和野祇園会の由来は比較的ははっきりしていて、室町時代に長州の大内氏が京都・八坂神社の祇園祭を山口の祇園社に勧請し、それを当時の津和野城主吉見氏が当地へ移入。さらに寛永年間(1624〜1643年)に領主亀井氏が京都に人をやり習熟させたとの伝承がある。
 津和野の鷺舞歌も同時に京都から伝わったとみられるがその当時、「かささぎ」(高麗カラスとも)が山口や津和野に生息していたかどうか不明。九州・背振山地南側の佐賀、福岡(かささぎ)、長崎では普通にかささぎを見ることができるが京都周辺や山陰では確認できない。
 畢竟、かささぎは古い時代、七夕伝説( 七夕の夜、牽牛・織女がかささぎが架けた天の川の橋を渡って逢瀬する)ととに本邦に伝わった伝説の鳥であって、その存在が知られ繁殖するようになったのは立花宗茂が「朝鮮の役」でかささぎを持ち帰ったことに始まる。
 かささぎは大阪の天の川に係る「かささぎ橋」(枚方市)や北原白秋(福岡・柳川出身)の唱歌などに登場する。しかしその生息場所が九州北部地域に偏在しているため、本州などではその名を知っていても生きたかささぎを見た人は少ないだろう。
 さて、次の鷺舞歌中、「かーわささぎ さーぎがはーしを わーたいた」のさぎ(下線)はかささぎの省略形として綴られたのだろう。かささぎを見たことのない津和野などでは鷺とかささぎの混同(同一視)がおこったものと思われる。混同は、かささぎが見慣れた鷺(白鷺)同様に美しいのでおこるべくしておこった混同というべきであろう。−令和元年7月27日−
はしのうえに おりーたー
とーりは なーんどーり
かーわささーぎーのー
かーわささーぎーのー ヤァ
かーわささぎ さーぎがはーしを わーたいた
しぐれの あーめにぬれ とーりとーり
(筆者の読み)
 橋の上におりた 鳥は何という鳥?
 かささぎ かささぎという鳥だよ
 かささぎ 鷺(かささぎ)が橋を渡っている
 時雨の雨にぬれているよ