白神社の記憶−広島市中区−
白神社灯篭 ・・・長月の十九日の有明の日のいでて、しほいの浜をゆくほど、なにとなく面白し。さて佐西の浦ににつきぬ・・・
 応安3年(1370年)、九州探題に任命された今川貞世は陸路、西下し海田浦に20日ほど滞在した後、しほいの浜(広島湾)を横断し、廿日市方面に向かった様子を「道ゆきぶりに」こう書きとめている。
 当時の広島は海中にあり、旅人は干潮時にしほいの浜をゆき西下したのであろう。その後二百年余を経て、毛利輝元の広島城築城当時(1589年)には、海岸線は今の国道2号線が通る100メートル道路辺りまで前進していたものとみられる。
 100メートル道路の広島市役所交差点の北詰の白神社に散在する岩礁が当時の波打ち際であったといわれる。 
 白神社の神殿は岩礁上に建ち、岩礁は旧国泰寺の愛宕池に続いている。岩礁に座礁する船も多く、白紙を立て航海の目印とし、その後、水祠をまつるようになったと伝えられる。航海安全の神社として毛利、福島時代には広島市民の総氏神として尊崇を集め大いに栄えたのである。江戸芝 尾張屋亀吉<文化2年>など江戸時代に奉献された石灯籠等が境内に立ち並んでいる。廻船業者がこの社に航海安全への願いをかけ奉献したものであろう。−平成18年5月−


岩礁
(白神社の

愛宕池(旧国泰寺)
の岩礁