白市の風景−東広島市高屋町白市−
旧木原家住宅
白市の町並み
 JR山陽本線白市駅から北西約2キロメートルの丘陵に白市という町がある。この地方の豪族平賀氏が元亀3年(1503年)に築いた白市城の城下町として栄えたところ。沼田、三次方面に向かう交通の要衝にあって、近世にあっては商業地として栄え、芝居小屋(長榮座)が建ち、牛馬市が開かれるこの地方の中心地だった。
 城下町の坂道に面して旧木原家住宅(写真上)がある。築340年の町屋。西日本では一、二を競う古い町屋建物(写真左)。切妻造り、平入り、本瓦葺き。桁行は12.6メートル。背後に角屋がついている。内部は、大戸口を入るとタタキの土間、土間に続いて部屋が2列に並ぶ簡素な造りになっている。土間に近い一列目は、店(畳の間)と板間の中の間、次の間が横一列に並ぶ。二列目は、座敷、納戸(二間)が横一列に並ぶ。土間と板間の間に戸はない。土間の上部は吹き抜けになっていて、豪放な小屋組みがのぞいている。寛文5年在銘の創建当時の鬼瓦が展示されている。木原家はもともと東国武士の出といわれるが代々、醸造・両替業を稼業とし塩田経営なども行った豪商。静かな佇まいをみせる城下を歩くと、起伏のある通りに渋い赤色をした油瓦で葺いた豪壮な町家が影を落としている。養国寺の楼門などもこの町の歴史を感じさせる。−平成18年8月−
 加計の町−安芸太田町加計−
加計の町並み
加計の菓子店舗
 太田川が逆U字を描く外延部の段丘上に加計の町はある。町の北に延びる国道186号線を辿ると石見に通づる。加計は、陰陽の街道に発達した宿場町だった。
 町の背後の山腹に吉水よしみず園がある。天明年間に、加計家の祖・隅屋八右衛門が京都の庭師・清水七郎右衛門に作らせた庭だ。 八右衛門は砂鉄を採取してたたら製鉄を行った鉄山師かんなし
 加計は太田川の水運によって鉄の集散地としても栄えたところだった。街道筋に、切妻の屋根の下に「加計饅頭」と彫った大きな看板(写真左)を吊るす菓子店(福間菓子店)がある。かつてはラクガンを製造販売したという店のショウウインドーに、たくさんの「型枠」が飾ってある。砂糖が貴重品であった頃、ラクガンは冠婚葬祭の引出物としてよく使われたものだった。店の内部は、売場に工場が接しているのであるが、工場の床が売場より一段と高くなっていて、4段分の階段を上って工場に入る造り。1メートルほどの高低差がある。多分、湿気を嫌うラクガンの製造、保管を考慮して工場敷地を店舗の床面より高くしたものと思われるが、別途の理由があったのかもしれない。いずれにしても職・住・店舗一体の今ではめづらしい町屋が残っている。
 加計はまた乱積みを徳意とする石工が多くいたところ。安芸の中山間地は地形が急峻。石垣を築き、平地を捻出し、宅地や耕地とする土地柄。加計の石工は、そうした安芸の石垣造りに大いに貢献したのである。町中に乱積みの石垣の断片が展示されているのでご覧になるとよい。−平成18年7月−