多家神社は、厳島神社、速谷神社とともに延喜式に載る安芸の明神大社である。
しかし、時が推移し、平安期以降所在が不明になり、氏子間で抗争に発展。しかし、明治6年、氏子が相和し新たに神社をつくり多家神社と称し今日に至っている。そのとき、旧藩主浅野氏が広島城内三の丸にあった稲荷社の宝蔵(写真左)などを寄進。現在、境内に残る校倉造の建物がそれである。江戸時代初期のものとされているが、断面が四角の部材(校子、写真左下)が使われている稀有なものである。 四角の部材は信貴山縁起に描かれているが、実在するのは多家神社の宝蔵のみとされている。大三島の大山神神社の校子と比較するとその違いがよく理解できよう。−平成18年6月− |