広島城−広島市中区−
広島城 広島城は、毛利輝元が天正17年(1589年)から天正19年にかけて築いた城。毛利氏の本拠はもともと内陸の吉田荘。輝元の祖父元就は、太田川河口部を中心地にして中国地方全土と瀬戸内海の覇権を握る秘策を描いたといわれる。孫の輝元がその構想を実現したわけだ。
 しかし輝元はよほどの人情家であったらしく、毛利征伐に西下した織田信長の手下羽柴(後に豊臣)秀吉と備中高松城で対戦中、秀吉の申出によって和議に応じてしまう。明智光秀の反乱を鎮め秀吉が天下人となる糸口を与えてしまったのである。さらに、輝元は、中国地方9カ国を掌中にして120万石の大大名になると、豊臣政権の重鎮たる5大老に列することになった。
 結局、関が原の戦で西軍の盟主にまつりあげられて敗戦。広島城の築城からわずか10年で防長2カ国の領主に転封になる。その後、広島城は福島氏、浅野氏の居城となり明治に至っている。
 広島の地の利のよさと、広島城の敷地は軍部が目をつけるところとなり、本丸内に広島鎮台・第五師団司令部が置かれ、外濠内はすべて陸軍用地となった。その大部分は西練兵場として使用された。広大な広島城址の本丸跡に日清戦争の際に建てられた大本営の礎石が残る。
 高さ三十数メートルの天守閣は、五層五重、東西に三層の小天守閣を従えるものであったが原爆で破壊された。現在の天守閣は、昭和33年に復元されたもので、コンクリート造り。最上層は原形に復元され、内部は郷土博物館になっている。−平成18年4月−