あかしの浦(人麿)−廿日市市−
 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に しまがくれゆく舟をしぞ思ふ  
                         <古今和歌集>
厳島の海域 柿本人麿の詠歌と伝えられ、古今和歌集に載る。播磨の明石の浦で実景を詠んだ歌とされ、何の疑いももたれてこなかった。平安中期に藤原公任の歌論書(和歌九品)がでて、ほのぼの詠歌は最上作(上品上)とされ、また藤原俊成によっても高く評価された。これほどの歌詠は人麿以外に考えられなかったということであろう。斉藤茂吉は、「人麿影供」に用いる軸中、三分の一にこのほのぼの歌が書かれていると言っている。 
 ところで明石の海岸端に立って、舟が朝霧に島がくれゆく情景を見ることが果たしてできるだろうか。島は淡路島と考えられるが、どうもそのような実景がみえてこない。不自然である。実景である必要はないという主張もあるかもしれないが、それでは公任の評価も上品上とはされなかったであろう。
 最初にこの問題を提起されたのは広島(佐伯町永源)の永尾幹三郎氏だった。永尾氏は芸州通史の書出帳(村々から提出した伝承等の編集資料)に人麿が明石集落(現廿日市市)に逗留し山に登り厳島を見ながら歌を詠んだものと書かれているところに注目して、現地を踏査して明石平の塔岩の下から眼下の、当時そのように呼ばれていた明石浦の朝霧の情景を詠んだものと結論付けられたのだった。今、塔岩に通ずる道が閉鎖されていて現場に近づくことはできないのであるが、似たようなところから眼下の海を眺めると朝霧が漂う海象のもとではしまがくれゆく舟を思うことができない。小舟の舟影が確認できないのである。石見の国庁から中国山地を越え、そこにはいく通りものルートが拓かれていたと思うのだが、人麿は石見国の朝集使として赤名峠を越えたり、明石浦の阿品辺りから船便か山陽道を辿って石見と都を往来したこともしばしばあったろう。地御前から阿品辺りかと思われる明石浦からみると、厳島が眼前に見えその左手に小島がある(写真上)。ほのぼの詠歌は、明石を泊地とした人麿が早朝、霧たつ浦で小島に消え入る舟をかんじみて詠んだものに違いない。−平成18年11月−
柿本人麿のこと
 人麿は持統、天武両朝に仕え、宮廷歌人として名を成した。宮廷歌人の名をほしいままにして、雄渾、壮大な歌を詠んだ歌人である。人麿は20年間ほど歌人として都で過ごした後、大宝2(702)年、忽然と洛外に去り、近江、讃岐、石見などで詠じるようになり、石見鴨山で没する。生年も没年も不詳。日本書紀、続日本紀にも手がかりとなる記録もなく、官人としての記録も不詳。そのことがかえって人麿歌に超然、孤高の趣を漂わせ、人麿にホメロスほどの評価が与えられても何の不思議もない。
 人麿歌は平安時代の貴族に愛唱されるようになり、平安中期には藤原公任の歌論書(和歌九品)や藤原俊成に高く評価された。名声を得た人麿は歌聖と仰がれるようになる。和歌を志す者は、近世まで人麿の画像を掲げ、添え書きの歌を高唱して歌の上達を願った。いわゆる「人麿影供」を行うようになったのである。
 ほのぼの歌は、人麿の雄渾・壮大な調べとは趣を異にしており真贋をめぐって古来、所説があるものの播磨の明石浦の実景を詠んだ人麿歌とされている。明石市には人丸塚(明石城)や柿本神社がある。−平成18年12月−