古保利薬師(福光寺廃寺)−北広島市古保利− | |||||||||
福光寺は凡氏宗家の氏寺と考えられているが、はたしてこれほどの仏像を刻む仏師がこの辺りにいたのであろうか。県下では、福山の明王院の十一面観音立像と尾道の浄土寺の十一面観音像が同時代の仏像と思うが、明王院等の仏像が地元で造られた確証もなくまた、福光寺は格段に多くの仏を安置していた点で特異である。 福光寺の貞観仏は、都の仏師によって造像され、当地へ運ばれたものであろうか。当時、仏教は国家鎮護の色彩をにじませていた。しかし、人々が生死の概念を仏教知識から十分に習得できなかった時代に、地方豪族であった凡氏に貞観仏を招来させた宗教的環境を私たちはどこに見出しうるであろうか。単なる氏寺の建立願望の延長上に福光寺があるものとは思えない。 班田収受制を基礎とする中央集権体制が8世紀半ばから徐々にほころびはじめると、中央貴族や大寺院等による荘園経営が始まり、地方では荘園領主の下で荘園管理に当たる荘官が武士化してゆく。凡氏はもともと古い時代にこの地方を開発し治めた国造ほどの豪族であって、廃寺周辺の古墳の被葬者かと思われる。凡氏は律令制下で統治機構が整備されてゆく過程で郡領に任じられる。しかし、平安時代後期にもなると凡氏は領地を厳島神社に寄進して壬生荘の荘官に転じている。寺原荘など凡氏の一族も次々と厳島神社へ領地を寄進することによって旧来からの支配権を維持したのである。厳島神社は平家の信奉を得た安芸の最有力神社。凡氏はやがて厳島神社を通じて平清盛への寄進も行なうようになる。 厳島神社の社伝はその創記を推古天皇(飛鳥朝)の時代とする。凡氏と厳島神社との関係がいつの頃から生じたのかはっきりしない。領地の寄進によって凡氏−厳島神社の構図がすでに貞観期には存在し、厳島神社を通じて凡氏と都の有力貴族との間に、仏教への憧憬が生じるほどに濃密な環境が形成されたのではないだろうか。造仏の環境について、8世紀は優美平明な天平諸仏をつくりあげた官立の造仏所が閉鎖され、有能な仏師は私立の造仏所で新たな造仏のはけ口を求めた時代だった。僧侶自らが造像のたしなみをもつ者もあらわれた。貞観仏はそうした造仏の新時代に花開いたのである。優美な顔立ちが厳しくなってゆくのも密教を背景とした当時の宗教界の内層をうつすものであろう。 福光寺の貞観仏は、凡氏と厳島神社とのかかわりから造仏所にあった仏師の手によるものが当地に献納されたものであろうか。 |
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