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長崎 |
じゃがたら文−平戸市(平戸島)− |
フランシスコザビエルが乗船したポルトガル船が平戸に入津したのは天文19(1550)年のことだった。以来、そこは交易や宗教を通じて欧州と我が国が融和し或いは激突して近世日本の胎動がきこえる文明の十字路となった。信長も秀吉、家康もこの西海の鼓動に一喜一憂の日々を送ったことであろう。
天文19年以来、ポルトガル船は毎年連続して平戸に来航したようであり、弘治3(1557)年、ポルトガル人がマカオを開港すると国内にポルトガル船の誘致合戦がおこり、永禄4(1561)年ポルトガル船長ら14人が松浦家臣に殺害される「平戸宮前事件」が勃発する。大村氏がポルトガル人に横瀬浦の開港を促し治外法権を認めると、ポルトガル船は平戸を避け横瀬浦に入港するようになる。永禄6(1563)年、大村純忠は横瀬浦で洗礼を受け、大村領内の信者は2300人に達した。この年、有馬義貞がアルメイダを招き、永禄9(1566)年にはトルレス神父が口ノ津に移り、口ノ津は一時期、キリシタンの中心地となった。
盛衰を重ねる平戸に再び光をもたらした人がいた。寛永5(1600)年、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長であったイギリス人のウイリアムアダムス(三浦按針)がその人である。按針は江戸幕府の外交顧問として召抱えられれ、三浦に250石の録を得て活躍し、晩年は平戸で暮らした。当地に墓がある。
慶長14(1609)年7月、家康がオランダ人に日本通商免許を与えると、同年9月には平戸にオランダ商館が設立された。その4年後の慶長18(1613)年にはイギリス人が通商特許を得て平戸に商館を創立している。それらの諸事はたぶん安針の進言によるものだろう。寛永10(1633)年にはオランダ商館長の江戸参府がはじまる。二次三次と発布されるキリシタン禁制の暗雲が平戸に漂いはじめる。オランダ人妻子のマカオ追放の翌年、寛永13(1637)年に島原の乱が勃発すると、第六次鎖国令が発せられる。オランダ・イギリス系日本人のジャガタラ追放が始まる。平戸から木田コショロほか20名ほどの者がバダビアに送られた。コショロなどが平戸の縁者に寄せた手紙が「じゃがたら文」といわれるものだ。
うば様まゐる
日本こいしやかりそめにたちいでて又とかへらぬふるさとゝおもへば心もこころならずなみだにむせびめもくれゆめうつゝともさらにわきまえず候共あまりのことに茶つゝみひとつしんじあげ候あらにほんこいしや こしょろ
コショロの心がはりさけるような望郷の念を思うとき私たちは落涙を禁じえない。たぶん、ちょっと旅でもどうかと甘言に誘われて乗った船が運の尽き、再び祖国の土を踏むこともないわが身であったが、外部交通が少し緩んで茶つゝみの余白に綴ったこの文にこそコショロの乳母様への恋しさ一途の無垢の懐かしさがにじんでいる。私たちはコショロの切ない思いのなかに平和の尊さを感じなければならない。
コショロのじゃがたら文は何枚かの古渡更紗(おらんだぬの)を市松に縫い合わせて茶包みを作り白地のところに文がしたためてある。平戸にはこのコショロのいわば手紙1通のほか六兵衛元妻ふくのもの1通と判田コネリのもの2通が残っているという。ここにもまたキリシタン哀史がある。(写真は平戸港に建つじゃがたら娘像) |
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