笹津海岸−笠沙町
 南薩のリアス海岸の美しさは、海の色と起伏に富んだ断崖に生える常緑樹のコントラストの美しさである。
 見晴らしの良い険しい崖地に、ずいぶん人家が多い。環境のよさが、人々を魅了するのかもしれない。空と海と丘が渾然一体となった絶景が何枚も何枚も絵葉書に収まっている。

 吹上海岸
吹上海岸 画像(吹上浜)
 東シナ海に面した長い海岸線に、見事な砂丘が延々とのびる。前面に島嶼などはなく、風波をじかに受けつづけた砂丘は徐々に成長し、やがてその背後に見事な平野をプレゼントした。
 稲作地帯にムラが発展し、強大な支配力をもつ豪族も存在した。神代のコノハナサクヤヒメの出自が砂丘の背後地の阿多(金峰町)と考えられている背景も理解できる。

 笠沙−笠沙町
笠沙の海 笠沙の海2
海中にバランス良く散在する大小の島々がおりなす笠沙の海岸に飽きることはない。洋上のパノラマは雄大である。
 笠沙はまた、神話の舞台となったところ。コノハナサクヤ姫とニニギノミコトにまつわる神話は、笠沙の地形、景観の特異さが霊験に通ずるというような単純な発想から生まれたものではなかろう。天孫降臨神話で日向の高千穂の峯に降臨したニニギノミコトは、・・・笠沙の御前を真来通りて、詔りたまひしく、「此の地は、韓国からくにに向かひ、朝日直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地ぞ甚吉き地なり。」と詔りたまひて、笠沙の地に満足したと古事記はしるす。しかし、本居宣長は、古事記のこの記述を相当問題視し、「向韓国」中の韓国を空国と解釈している。史観の違いによるものであろうが、当時の九州は朝鮮との往来によい位置にあり、文化的先進地だった。ニニギノミコトが笠沙の御前で遭ったコノハナサクヤ姫は神阿多津比売と謂い、大山積見神のむすめであると古事記はしるす。阿多は今の金峰町。この辺り一帯を支配し天孫に縁のある大きな政治勢力が存在したのであろう。笠沙には日本民族のルーツに関わる重要な意味が隠されているかもしれない。
 神話の故地、笠沙の岬に「笠沙の御崎の碑」が建ち、金峰町の道の駅「此花館」にコノハナサクヤ姫の銅像(中村晋也作)が建っている(写真下)。

笠沙の御前の碑 コノハナサクヤ姫