福岡市の西に室見川が流れ、博多湾に注いでいる。その河口部の左岸に愛宕山(鷲尾山)という小高い山がある。山の頂上に禁煙、禁酒など断ちごとに霊験があるという愛宕神社が建っていて、周年人出が多いところである。
弘安の役の後、永仁元年(西暦1293年)、鎌倉幕府はこの地に鎮西探題を置き、北条兼時によって鷲尾山城が築かれた。北条一門が探題を務め、肥後の守護大名を兼ね、大友、島津氏など九州の有力守護を牽制する役目もあった。
戦争後の論功行賞は武士社会の最重要課題。奉公と所領安堵によって成り立つ社会であったから、御家人らは自己査定と現実の狭間で不満を抱え訴訟を繰り返した。幕府の訟務は滞り不満は嵩じていく。そうした悪循環のもと、九州の御家人らの訟務の処理に付き鎮西探題に処理権限が与えられた結果、幕府の訟務の滞りが解消されるなど鎮西探題は統治にそれなりの効果を納めるようになった。しかし、次第に幕府の弱体化が進み、後醍醐天皇が倒幕の旗揚げをすると、不遇の御家人がこれに呼応し、正慶二年(1333年)、足利高氏に追われ京を逸走した六波羅探題・仲時らが近江番場(米原)で野武士に襲われ自害、次いで得宗・高時らが新田義貞に鎌倉を落とされ自害。鎌倉幕府は滅亡した。時の鎮西探題・英時は、大友、島津らの攻撃を受け滅んだ。高時の死後から三日後の出来事だった。
愛宕神社の境内から博多湾を見下ろすと、能古島や志賀島が博多湾の水盤に浮き、元寇船ならぬクルーザーが帆を挙げ能古島回りをゆっくりと旋廻する船影がみえる。
|