九州絶佳選
福岡
筑豊炭坑(ヤマ)の風景−田川市−
<炭坑節>
♪・・・一山二山三山越え 奥に咲いたる八重つつじ・・・
月が出た出た月が出た 三井炭坑の上に出た
    あんまり煙突が高いので さぞやお月さんけむたかろ♪
石炭公園
  筑豊炭田は明治から昭和40年代まで永く日本の産業を支えつづけた炭鉱だった。遠賀郡一帯で採掘される豊富な石炭は、八幡製鉄の溶鉱炉の火を燃やしつづけ、讃岐の塩田の火を消すことはなかった。日本の産業発展の象徴だった。第二次世界大戦後、めざましい経済復興を支えたのも石炭産業に負うところ大なるものがあった。しかし、昭和30年代の第一次経済成長期に石炭から石油へと徐々にエネルギー転換が進み、1962年(昭和37年)、ついに政府は原油の自由化に踏み切ったのである。炭坑は徐々に衰退の道をたどりはじめ、1973年(昭和48年)、終に筑豊の坑内彫りの炭鉱はすべて閉山に至った。
  閉山から30年余。筑豊から炭坑施設が消え、炭坑の存在すら知らない若い世代が増えた。ボタ山は青々とした樹木が茂る円錐形をした形のよい山になった。繁栄の陰に厳しく危険なヤマに生きた人々の存在すら私たちの脳裏から消えかかっている。落盤、ガス爆発、出水等により命を落とした数万の英霊の叫びも、遠くかすかなものでしかなくなった。 
 地の底にわれを誘いて入るさまに 悲しき山の秋の水音 
                        <与謝野晶子>
  大正6年、田川を訪れ伊田竪坑に入坑した与謝野晶子は、ヤマへの愛情と驚きを込めこのように詠った。地下300メートルの闇世界で、湧き出てひたひたと路盤を打つ水音に驚きを禁じえなかったのである。
  伊田竪坑が蘇った。跡地に田川市石炭資料館ができ、公園化されて久しい。公園内に竪坑櫓や煙突が当時のまま残り、資料館には石炭の掘削・運搬の器具・機械、炭坑住宅などが展示されている。資料館は、田川の先史時代から現代に至る民俗資料の展示などもあり、田川探訪の入り口となるよう配慮されている。−平成17年8月−

田川市石炭資料館