福岡市中央区に「平尾」という地区がある。丘陵地を成し大方は住宅地になっているが、平尾山荘と名がつく通りやビル、マンションなどが散見されるところである。この平尾山荘の名称は、幕末の歌人であり勤王を貫き、時代を駆け抜けて散っていった野村望東尼が夫・貞貫とともに20年余、退隠生活を送った山荘に由来する。
平尾公園の森の中で、往時と変わらないであろう常緑樹から洩れる陽を浴びて、山荘はひっそりと佇んでいる。周囲の景観は、ほとんど当時の痕跡を残さないまでに開発が進み変わったが、山荘の屋敷まわりに立つとあたりの喧騒がうそのように閑静なところ。望東尼の胸像や歌碑が山荘脇の鬱蒼とした林のなかにある。胸像は、女史の強い精神力がうかがえる凛とした顔立ちが印象的である。
望東尼は54才のとき夫・貞貫と死に別れ、明光寺で剃髪し、望東尼を名乗るようになる。寺から野村家に戻った後、歌の恩師・大隈言道を大坂に訪ね、兵庫、京都など諸国を歴訪するうちに勤王の自覚を強くし、中村円太など筑前勤王党とも深い関わりを持つ。最晩年は高杉晋作との因縁などからその生涯は風雲急を告げ、怒涛の人生を送った人であった。
望東尼は1864年(元治元年)、中村円太の仲介によって長州(山口)の高杉晋作を一時、山荘に匿った。このころ黒田藩の政情は佐幕に傾きはじめ、1865年(慶応元年)、処刑、流刑等に処せられる者は百人以上に及んだ。望東尼は流刑。糸島半島の西に浮かぶ姫島へ流され、島の獄舎につながれた。この報に接した高杉は、1866年(慶応2年)、長州の騎兵隊士である筑前の藤某らに望東尼を救出させ、長州に迎えたのであるが下関・馬関で伏床。高杉の病状は悪化し死出の旅路に、望東尼と交わした有名な歌が残っている。
おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり
<上の句 高杉晋作 下の句 望東尼> |
高杉は「おもしろいのう」といって瞑目したという。享年29才。
望東尼は、その後山口、防府(三田尻)に移り、翌1867年(慶応3年)、病没。姫島に送られて以来、望東尼は二度と平尾山荘の敷居をまたぐことはなかった。享年62才。
雲水の流れまどいて華浦の 初雪とわれ降りて消なり
<望東尼 辞世の句> |
望東尼の足跡を辿ると、縁者たちに女性らしいこまやかな心配りをみせる望東尼であるが、難事に揺れず、青年たちに結集を求める豪胆の人でもあったようである。公園の歌碑に私たちはその片鱗を偲ぶことができる。歌人でありながら、歌人を越えところに筑前女性の芯の強い生き様を見出すことができる。 |