九州絶佳選
福岡
川上音次郎-福岡市-
 私たちは、新しいものになかなか袖を通す勇気を持ちがたいところがある。新しいものの存在すら十分わからないのに、それを見つけだし新しい形に育てることは容易ではない。なりよりも苦痛がともなうことを知っているからである。そのような意味で伝統を越えてその亜流に陥らず別ものをつくりえたならば、その人は先覚者と呼ぶにふさわしい人である。多少の紆余曲折があり時間がかかろうとも、人々にその結果が評価され定着すれば、新しいものに袖を通した人ということになろう。
 博多座に近い対馬小路の一角に、陣羽織に袴姿でハチマキをして軍扇をかざした特異ないでたちの銅像が建っている(写真右)。1864年(文久4年)、博多の対馬小路で藍問屋に生まれ、明治20年代に一世を風靡した川上音二郎がオッペケペ節を演ずる姿を写したものである。
‘・・・権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ましたい オッペケペ オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー・・・’
 音二郎は、14歳で博多を立ち東京、大阪、京都などを転々として落語や歌舞伎、芝居の諸芸を磨くうちに、落語からヒントを得たオッペケペ節で人気を博した。博多にはもともと平岡浩太郎らが興した玄洋社という結社があって、憲政運動が盛んな土地柄だった。玄洋社に一時期、身を置いとことのある音二郎は、同社を出た後も書生芝居というかたちで民権論を推進した人ではなかったか。板垣退助遭難実記などを演ずることによって、民権思想の普及に努めた思想家という視点を捨てきれないひとである。
 音二郎ののめり込んだ芝居熱はとどまるところを知らなかった。
 明治30年代に一座を組み欧米に雄飛し、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンなどで公演し、ロンドンではシェークスピア劇を演じている。フランスでは万国博覧会場で公演するなどしてアカデミー勲章を受賞している。ロシアでは、ニコライ二世の前で御前公演を行っている。音二郎の海外公演は歌舞伎を基本としたものであったが、斬新なアイディアもあった。音二郎は、それらの海外公演を通じて諸国の演劇を学び舞台装置などの日本への移植にも努めている。ようやく近代演劇が意識されはじめたころ、音二郎はいち早くその息吹をとらまえ実践してみせ、歌舞伎に対する新演劇の分野に袖を通したのである。新派劇の先人である。その音二郎も1911年(明治44年)、帰らぬ人となった。享年47歳。博多の承天寺(写真左)に墓所がある。音二郎と行動をともにした妻貞奴は、女優として名をなした人である。−平成17年5月−