わが国は、世界の先進国中、地理的、気象的に恵まれない諸条件を克服しながら発展してきた歴史をもっている。河川の流路は急峻かつ短く、台風の常習地帯である。加えて大陸と太平洋の狭間に生じる梅雨前線は稲作に不可欠な降雨をもたらす反面、病害虫の温床となり易い高温多湿の気候をともない、前線が台風等によって刺激を受けると集中豪雨等を招き、毎年甚大な災害の発生をみている。かつ旱魃になると作物が育たず飢饉となる。
福岡の人々は、古来こうした災と向き合い幾多の困難を克服し今日の繁栄を得ているが、二百数十年前の享保年間に未曾有の大飢饉に見舞われたことがあった。筑前で9万6,000人、うち博多で6,000人の餓死者をかぞえた。当時の博多の人口は約1万9,000人。3分の1が餓死するという未曾有の惨事だった。享保17年から3年間にわたり、旱魃、水害、病害虫の発生によって農作物は育たず、あわせて疫病が蔓延し、博多の町は地獄と化したのである。着のみ着のまま農村から博多に流入し息絶えた人も多くいたであろう。
博多の上川端から東中洲に通ずる道路に水車橋という橋が架かっている。その橋のたもとに飢人地蔵堂(写真上)がある。享保年間の飢饉で命を落とした人々の遺骸を集め、1基の地蔵尊を刻み供養したものである。毎年、8月23、24日に川端地区の人々によって施餓鬼供養が行われている。線香や供花が絶える日はない。地蔵尊の周りが黒く煤けている。博多の人々の日々の供養の証。地蔵尊に向かって左わきに板碑が一基祀られている。傷みがあり銘が読み取れないが、上部に種子が刻してある。
博多区の千代や中央区笹丘や御笠川河口部などにも享保の飢饉による餓死者を供養した飢人地蔵がある(写真左は千代の飢人地蔵)。荒戸浜で粥の炊き出しが行われたが、餓死するものが後を絶たなかったと伝えられる。−平成17年5月−
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