西嶋八兵衛-高松市-
  江戸時代に香東川の改修工事が行われた。高松市街の中央を貫流する東の流路を、西の流路(現在の香東川)に統合し、治水と都市用水の確保を図る事業だった。旱魃の被害や都市用水の確保に苦しむ庶民の切実な願いだった。
大禹謨石碑
満濃池
  工事を指揮したのは、伊勢津藩の水利技術者・西嶋八兵衛である。来讃した西嶋は、工事に先立ち「大禹謨」の書を石に刻み、香東川のほとりに顕彰した。「大禹謨」の石碑は、中国の経書に載る禹王の故事になぞらえて、はかりごと(香東川改修工事)の成就を祈願したものであろう。八兵衛の工事完成への決意を示すものだった。
  香川町大野で発見された石碑(写真左上)は、栗林公園内の商工奨励館中庭に移され保存、展示されている。栗林公園参観の折に公園の吹上げ(湧水)と併せ見学されるとよい。
  八兵衛の功績は屋島や木田新田の開発など数多いが、特筆すべきは満濃池(写真左下)の再築である。満濃池は、弘法大師によって修築されたが、破堤によりその機能を失い中世には池内村が存在するありさまだった。2年半の歳月をかけた再築工事(西暦1628〜1631年)により満濃池は蘇り、約3万6千石相当分の水田水源が確保されたのである。生駒藩の実際石高は22万石であったから、実にその16パーセントに当たる石高分の安定水源を再創出したのである。
  八兵衛は高松藩生駒高俊公の下で普請奉行として活躍したが、高松市内の四番丁小学校の一角に屋敷跡がある。