土佐の国府-南国市-
高知の浦戸湾に流入する国分川の上流に、比江地区(南国市)がある。収穫の終わった水田にビニールハウスが建ち並ぶ田園地帯.であろ。背後に山地を背負い、南面に高知平野が広がっている。
  比江は、古の土佐の中心地。田圃の中に土佐国庁跡や国司の邸跡が残っている。少し離れたところに土佐国分寺跡があり、土佐の国府のなごりをとどめている。四国88箇所・第29番札所国分寺も当地にあって、巡拝者の往来が絶えることはない。
  奈良、平安期に土佐の国府に赴いた国司は百十人余にのぼる。国司の任を終え帰京後、「土佐日記」を著した「土佐守・紀貫之」がつとに有名。貫之は、「古今和歌集」の選者の一人として仮名序をつづり、仮名文字による「土佐日記」を著し、その後の日記文学などに大きな影響を与えた人。官人としての地位は生涯を通じ高くはなかった。土佐日記などから受ける多情多恨の性格とは裏腹に、貫之には冷めた憂鬱が常在したのではないだろうか。家持歌に漂う憂鬱と似たものがありはしなかったか。紀氏も大伴氏も都での権力闘争に破れ、没落貴族としての処遇に甘んじなければならなかった憂鬱が、二人の進路を覆っていたように思う。 
 
うらうらと てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもえば <家持>
   藤原氏の権勢におびえる大伴一族の情景がにじみでている。なんともか細く繊細な歌であるが、その憂鬱はまた現代人にも通づる。大変、近代的な憂鬱である。
みやこへと おもふこころの わびしきは かえらぬひとの あればなりけり <貫之>
  貫之は都から同行した愛娘を当地で失い、しばしばその哀傷を土佐日記に滲ませる。そこには都での紀氏一族の立場を慮ってのわびしさも同居し、愛娘を失ったわびしさが一層募ったことは想像に難くない。土佐へ赴く前年、新撰和歌集の撰進を命ぜられた醍醐帝も崩御された。帰京した貫之の憂鬱も一層深刻であったに違いない。その後、貫之は周防守などを歴任して70余歳で没したとされる。
  還暦を過ぎた土佐守・貫之は、底冷えする都の冬の寒さからしばし開放され、気候のよい南国土佐で愛娘とともに野山に遊んだこともあったであろう。レンゲならぬコスモスが田園を明るく染めている。