阿讃の峠(竜王峠)-徳島県美馬郡美馬町、香川県仲多度郡琴南町-
竜王峠
  竜王山から大川山に至る阿讃山脈に、千メートル級の山々が連なっている。阿讃の山岳地帯は、阿波と讃岐を分ける高い壁だった。 東の竜王山から西の大川山の間に、美馬から琴南に抜ける峠が3箇所ある。東から竜王峠、寒風峠、三頭峠である。
  阿讃に暮らす人々は、この高く険しい山を越え、絶えることなく交流を深め阿讃の文化を育んできた。讃岐の土器川流域の農家は、美馬、三好から峠を越えやってくる阿波のカリコ牛や早乙女を迎えて農繁期をしのぐ風があった。讃岐では出稼ぎ人をカル子といったので、「カル子の牛」が転じてカリコ牛というようになったという説や「借耕牛」が転じてカリコ牛となったという説があるが、前者が自然に思われる。讃岐でいうカリコ牛は、阿波では米牛といわれた。葉たばこなど畑作が中心で米のとれなかった美馬、三好の山間部では、牛の借料として支払われる米は何物にも変えがたい貴重なものだった。
 ぐるり八間、讃岐の農家の家は狭かった。讃岐平野では米作が盛んであるが農家戸数が多く、1戸あたりの耕地面積は狭い。そうした小農は、稲ワラの飼料が大量に必要な牛を飼わなかった。稲ワラはカマスにして塩田や肥料会社などに売ればよい金になったから、カリコ牛を使役する方が経済的だったのである。讃岐は蚊が多いから牛を飼わなかったという説もあるが首肯できない。加えて、カリコ牛の風は、阿讃の農耕風土の違いが双方の利害に叶ったと思うべきであろう。
 今日においても、讃岐では大体、6月上旬の入梅時分に田植を行うところが多い。これに対し、阿波では、6月上旬にはすでに田植は終わっていた。牛は、アワ、ソバ、キビなどの畑地の起耕や堆肥生産のため飼われていたのである。讃岐の田植時期に阿波からやってくるカリコ牛は、春は讃岐で起耕、代かきなど田植準備をし、秋から冬にかけては麦の植付けの準備やサトウキビ絞りに使役され、都合3ヶ月間ほど使役され1石5斗(約225kg)ほどの米をもらって峠を越えたのである。カリコ牛が盛んな時代には、阿波の美馬郡で1,700頭、三好郡で2300頭(昭和6年内田秀雄氏調査)もの牛が、讃岐の綾歌郡や多度津郡を働き場所として阿波からやってきたのである。カリコ牛の借り貸しは仲追人なかおいんどが仲介し、その受け渡しは借り方、貸し方の双方が出て三頭峠の犬の馬場や相栗峠の岩部、猪鼻峠の戸川などで行なわれた。阿讃に暮らす人々はこのようにして合理的な農業経営を行なっていたのである。
 農業の機械化によって、カリコ牛の習慣も消え、また数年前、「三頭トンネル」(延長2,648メートル、国道438号線)が開通し阿波・讃岐間の交通事情は一変したが、今なお古道の峠は阿讃の人々の交流の絆であることには変わりがない。
  美馬から竜王峠を越え数キロ下ると、讃岐の土器川最上流の集落、川奥地区に出る。地区に杉王神社、さらに遡ると鬱蒼とした樹林に覆われた川上神社がある。両社の巨木が古い社の歴史を物語っている。杉王神社のそれは杉。樹齢800年余、幹周り9.3メートル。川上神社のそれはホオノキ。幹周り3.2メートル、葉は30センチメートル余りもある。見上げるようなケヤキの大木もある。谷川から深山の鼓動が聞こえる。-平成15年6月-

讃岐で子牛を買い土産物を肩にして竜王峠を越える阿波の人々(昭和40年代)