藍こなしの風景(藍の館)−板野郡藍住町徳命−
炎天となる静けさに 藍を干す  <豊川湘風>
藍住町歴史館
藍の商談
  ―奥村家の大門をくぐると、主屋の前庭で使用人が藍こなしの最中である。お玉さんらが‘からさお’で藍を打ち、その脇で田平さんが‘藍すり’をして藍を細かく砕いていく。「今日はええ風が吹くけん仕事がはかどるのう」と、田平さんが‘風やり’をする銀次さんに声をかける。しだいに、藍が葉と葉脈、茎に選別されていく。しばらくして、商人がやってきて、長屋門をくぐりお玉さんらに軽く会釈して、もみ手をしながら足早に店に入ってゆく。撫養の藍問屋の太助さんだ。藍玉に値が入ると、番頭の与助さんが、「有難うございます。お茶でも召し上がっていかれよ」と、すかさず太助さんに声をかける。奥座敷に太助さんを案内する与助さんの姿が見える。
 ―そのような藍商の風景が浮かぶような施設が「藍の館」(藍住町歴史館)で再現されている。
  館は、藍商を営んだ旧奥村家(主屋は1808年建築)の住宅を整備したもので、主屋、藍寝床、長屋門などの建造物や藍の栽培、加工、流通、染めの場面、場面がジオラマで再現、展示されている。藍の総合学習施設といったところであろう。
  木綿の染料として阿波藍の声価は高く、明治30年代に藍の栽培面積は極点に達したが、同36年化学染料やインド藍の輸入によって、阿波藍は、次第に衰退の道をたどるようになった。しかし、今日また天然藍が見直され正藍染が人気を得つつあるという。館内に藍染めの召し物などが展示されているのご覧になるとよい。一見地味にみえるが、大変深みのある洒落たものが多い
 藍の播種は2月初旬、7月に刈り取る。刈取った藍は、藍こなしをして細かく砕かれた葉藍となる。葉藍は寝床にいれ90日、注水、攪拌が繰り返し行われ、藍はスクモと呼ばれる塊状物になる。これを藍臼に入れ、ひいたものが藍玉である。藍玉は、麦藁俵で包み出荷された。−平成16年12月− 
母川の大うなぎ−海部郡海部町−
母川の大うなぎ(イーランド)
母川(せり割り岩)
  徳島の東岸、海部町に太平洋に注ぐ海部川が流れている。その支流に母川という小河川があり下流一帯に大うなぎが棲息している。大岩をせり割りでてきたという伝説をもつうなぎである。
 大うなぎは、私たちが食するうなぎとはまったく別種のうなぎであって、成魚になると体長2メートル、胴回り60センチメートル、重量は10数キロにもなる。原産地は、アフリカ、マレーなどの熱帯。日本列島は棲息地の北限。国内では、鹿児島など九州南部や和歌山、静岡などでたまに確認されることがあり、マスコミでとりあげられることもあるうなぎである。
  海部町の大うなぎ水族館「イーランド」で幼魚から成魚(15年魚)まで飼育、展示されている。水族館は他のうなぎ関係の資料も豊富。水槽の筒状の住処から丸く大きな頭と斑紋のある太短い胴体を半分ほどだし、ヌッーとこちらをにらむ大うなぎを見ていると凄味を感じてしまう。
  海部地方では、大うなぎを「カニクイ」或いは「ジャウナギ」といっている。禁忌を伴い食する者はいないという。伝説のせり割り岩(写真右)がある母川の淀みは、今にも大うなぎがでてきそうな雰囲気がある。昭和30年代に斃死する固体が相次ぎ、大うなぎの棲息数は激減しているという。
  ウナギの種類は多く、一様に論じることはできないが、30数年前、東京湾で漁をする行徳(千葉県)の漁師から、「うなぎはフィリピン沖で産卵すると言うがそうではない。抱卵したうなぎがどうしてこの浜で獲れるのか。」と伺ったことがある。漁師は、うなぎはフィリピ沖ではなく、沿岸海中の泥の中で産卵するのだというのである。干潮時に舟道に沿って、三日月形をした鉄棒の尖端に針を3本つけた漁具で、豆腐を切るようにして泥をひっかくと抱卵したうなぎがかかるという。有明海の漁民がワラスボ漁をするあのような漁具を用いて抱卵したうなぎが採れるというのである。
  河口を遡上するシラス(うなぎの稚魚)は数センチに満たない大きさ。養鰻業者は夜間、カーバイトの明かりに寄るシラスを採捕して養魚場に放つのであるが、シラスを潮水に泳がせておくと1週間ほどで倍くらいの大きさになる。その成長の早さを考えると、卵が黒潮に乗って沿岸にたどりつくやいなやふ化し、いっせい遡上するというのもうまくできすぎのようにも思われる。行徳の漁師説を支持したい気になるのだが、謎の多い魚族である。
  阿南などの養鰻業者が扱うシラスに大うなぎが混じることがあるという。母川の大うなぎは、ひょとして阿南から室戸に至る沿海で産卵するのかもしれない。うなぎは神秘に包まれた魚族である。。−平成16年7月−