高知城−高知市−
  土佐の市街に、四層六階の天守閣が高々と聳えている。高知城は、17世紀の初頭、関が原の戦功により土佐24万石に封ぜられた山内一豊によって10年の歳月をかけ築かれた平山城。大火により焼失したが、18世紀中葉に再建された。天守閣や追手門、本丸御殿など名城を支える貴重な遺構が残っている。
 千代(写真下右)は聡明な女性であったらしく、千代紙はこの人の考案とされる。一豊の死後、京都の妙心寺大通院に入られた。畿内に縁のある人だったのだろう。
  早朝、ランドセルを背負った小学生が一人、始業に遅れそうになったのか、追手門(写真左)をくぐり城内を小走りに駆け抜けてゆく。土佐市民の生活が息づく高知城。大変よい環境のなかで、子供達もすくすくと育っている。
みせ造りの街通り−徳島県海部町等、高知県東洋町等−
 徳島県最南端部の土佐ざかいの町々に、「みせ造り」の家並みが残る。商家の表に1間ほどの折りたたみ式の木製板を備付け、昼間は商品を並べる陳列台として、夜間は雨戸として併用された。『「アゲミセ」と呼んでおります。現在、アゲミセのあるお宅はだいたい商売をやっておりました。』と地元の人(海部町鞆浦)。
 「みせ造り」は、海南、海部、宍喰さらには高知の東洋町あたりまで、商家の一般的な建築様式になっていたらしく、通りに昔日の面影を映している。
 高知県東洋町の町通りを歩いてみよう。海岸沿いに走る国道55号線から町に入ると、旧土佐街道沿いに町が開けている。切り妻の木造平屋瓦葺きの民家が街道に建ち並ぶ。庇は大きく造り、独特の家構えになっている。「みせ造り」を残す民家もかなりの密度で残る(写真左右)。家並みの高さに比べ道幅が広く、開放的なロケーションに懐かしさを感じる。
  「みせ造り」は、敷地の有効利用や地域における購買者層の数等を参酌して考案された建築様式のように思われる。その合理的な着想は海部町鞆浦などで顕著である。鞆浦は漁家が多い地域であるが、土地条件から道路は広くはない。地区の商家では、「みせ造り」は必需であろう。現存するアゲミセの濃度も濃い(写真左右)。アゲミセの左右に飾り板をあげた民家もある。
  東洋町と町界を接する徳島県宍喰町の町通りや海南町等でも「みせ造り」の民家は多い。貴重な町並みである。