湛甫の燈籠と金刀比羅宮−丸亀市、琴平町−
♪こんぴら舟々 追手に帆かけて シュラ シュッ シュッ シュッー ・・・♪
 京・大阪や東国から金毘羅参宮に向かう人々は、淀川河口から瀬戸内海を経由して、丸亀の新堀湛甫(丸亀港)に上陸した。港から丸亀街道(金毘羅街道)を歩き、金毘羅さんまで3里ほどの距離。浪花節の初代・虎造の名調子で有名な森の石松も次郎長の代参で、はるばる遠州から金毘羅詣をしたひとりだった。
  新堀湛甫に天保年間に建てられた青銅の燈籠が保存されている。蓮をかたどった高さ5メートル余の堂々とした燈籠である。実はこの燈籠、金毘羅詣の隆盛に深い関係があるようである。
  丸亀藩に江戸留守居役を勤めた「瀬山登」(写真左)という人がいた
ぼんぼりウォーク(玉屋撮影)
。留守居役は、江戸屋敷に詰め、藩と幕府の連絡、調整に当たったが、老中や豪商とも近い距離にあった。政治経済や幕府の動向など情報を収集し、有益なものは逐次江戸留守居役から国元へ通報したのである。
  江戸留守居役・瀬山登は、今日のいわゆる観光誘致の趣旨により国元からやってきた金毘羅宿の主人らとともに、江戸やその周辺に金毘羅講を組織し、金毘羅大権現への参詣誘致に当たることもあった。老中、富商への接触はもっぱら瀬山登にゆだねられたことは想像に難くない。誘致客の受入港として新堀湛甫が築造され、富商などからなる江戸講中によって青銅の燈籠が献じられ、新堀湛甫近くに灯された。燈籠の側面に奉献者名が刻まれている。江戸本所 塩原太助、芝新銭座町 伊勢屋孫八、十両寄進して無名と刻まれている者もある。燈籠は最高額の寄進者の名にちなみ、「太助燈籠」と呼ばれるようになった。
  このようにして金毘羅信仰は講によって一層広まり、新堀湛甫は諸国の参詣客で大いに賑わったのである。新堀湛甫は丸亀街道の入口。毎年、11月のころぼんぼりウォークが開催され、観光客で賑わう。
  昔、参詣客は、新堀湛甫から丸亀街道を辿って金毘羅さんに向かう道すがら、善通寺(弘法大師の生誕寺)や我拝師山(捨身ヶ嶽)など大師ゆかりの仏閣を拝し、金毘羅詣の土産に「うちわ」を買って帰郷したことであろう。実はこのうちわも瀬山登の着想から生まれた。江戸屋敷の隣り合わせだった九州中津藩から製法を学び土産物としたのである。今日、丸亀のうちわの生産量は全国一である。
  丸亀街道を往くと、金刀比羅さんの参道前を流れる金倉川のほとりに着く。20メートルはあろうか、見上げるような「高燈籠」(写真左)が琴平電鉄の琴平駅に接するように建っている。このくらい大きなものになると、航路標識の役目もあったという。高燈籠は、江戸期に寒川の砂糖会所が音頭をとり、同郡中から浄財を募り建立された。讃岐は砂糖の一大生産地だった。
  折から金刀比羅例大祭(10月9〜11日)が行われている。高燈籠の下で、地元の高校生によって金毘羅舟の唄が披露されている。♪こんぴら舟々 追手に帆かけて シュラ シュッ シュッ シュッー ・・・♪
  今日は祭りの最終日、参道は観光客などであふれんばかりである。午後、人垣をかき分けるようにして「花魁」がゆるりゆるりと練り歩く。御旅所では神楽が奉納されている。御旅所で一夜を過ごした御輿は午後9時には金刀比羅宮へ上られる。

  丸亀港が改修される以前、湛甫の岸壁はこんぴら船(玉屋撮影)で賑わった。はるばる和歌山など関西方面からこんぴら船に乗って金刀比羅宮に参宮する人々で湛甫の港は大いに賑わったのである。こんぴら船は、本四架橋の開通など交通網の整備によってその長い歴史に終止符が打たれた。-平成15年10月11日-