道後温泉−松山市−
 山辺赤人は、「・・・伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして歌思ひ辞思ほししみ湯の上の・・・遠き世に 神さびゆかむ 行幸処」(万葉集)と道後温泉を詠った。道後温泉は、聖徳太子や斉明天皇、舒明天皇、天智天皇、天武天皇など多くの天皇が訪れ、一遍上人や小林一茶などとも縁のある保養地である。
 西暦596年、聖徳太子が百済の僧恵聡法師と葛城臣(蘇我馬子か)を供に夷與(伊予)を訪れ、神井(温泉)の霊験を感じ、「法興六年十月歳在丙辰我法王大王興恵聡法師及葛城臣逍遥夷與村正観神井歎世妙験欲叙意聊作碑文一首・・・」ではじまる聖徳太子行啓碑が建立されたことが続日本紀で引用する伊予風土記に伝えられている。碑は現存していないが、日本最古の石文が道後に建てられたことがわかる。道後温泉は国史上、最も古い記録がのこる温泉地。随行者が恵聡と馬子という本邦最古の寺院(法興寺。古址に安居院がある)の住持と当時の廷臣最高の政治的実力者がともに伊予に揃ったという事実も貴重であろう。
  松山の市電道後温泉駅前のアーケード街を真っ直ぐに進むと、白壁土蔵風の椿の湯、その右手アーケード街の突き当たりに、堂々とした木造三層楼の銭湯・道後温泉(明治27年建築)の破風の屋根が目に入る。新装間もない湯壷に正岡子規や夏目漱石が入浴している。漱石が湯壷で泳いで「湯の中で泳ぐべからず」の立札が立てられた温泉だ。
  道後温泉の脱衣場で大きなリュックを脇に置き、ほっとした表情で高い天井をぼんやりと見上げる人は、遠来の旅人であろう。ベンチに腰をかけ他愛のない世間話に花を咲かせる老人たちは、近在の温泉好きのグループ。いつの時代にも変わることのない道後の温泉風景である。
  市街は丘陵の裾野に展開していて、近代的な温泉・ホテルが建ち並び、温泉街の高みに伊佐爾波神社や湯神社が鎮座している。