宇和の街−宇和町−
  肘川は、瀬戸内海の伊予灘に注ぐ大河。肘川を遡り、大洲、野村からさらにその上流の宇和川沿いに進むと、宇和の街が開けている。
  宇和は、江戸時代に南予の中心が宇和島に移るまで政治、経済、文化の中心地だった。小森古墳(前方後円墳)など南予の古墳の多くは、宇和に所在する。宇和盆地の稲作を中心とした高い農業生産力を示し、銅矛など弥生時代の遺物の出土も多い。近世に至っては松山、宇和島への宿場として栄え、経済力を蓄積し、文化の花が開いた。
 市内中町に残る江戸〜明治時代の商家が往時の繁栄を物語る。総二階の家屋を漆喰で塗り込めた白壁が、宇和盆地の暑い夏を跳ね返している。深く突き出た庇が美しい。日除けにもなっているのだろう。美しい街並みである。

  中町を少し西に向かうと卯之町。西日本では最古とされる洋風建築校舎「開明学校」があり、その隣に「申議堂」が保存されている。 開明学校の校舎の二階窓はアーチ窓。造りは洋風であるが、校舎玄関口に唐破風の屋根が付く。古来の様式にも配慮されている。 開明学校は、明治15年の建築。申議堂の方は、私塾として明治2年に地元の人々によって開校された。京都の町衆によって開校された私塾と同時期だった。学制発布(明治5年)とともに初代の開明学校校舎として使用され、日本の学制発布の原動力となったともいえるだろう。私たちは宇和の人々の先取の気概をおもわねばならない。
 宇和にはモダンな洋風校舎など希少な建物群がよく保存されている。明治期に限らず昭和初期に宇和警察署として建てられた木造二階建て桟瓦葺きの洋風建物は今も宇和自動車教習所として現役である。遍路路沿いのびやかな風景の中に建物はある。
 宇和の人々の文化に対する先取の気概と教育熱は並々ではなかった。その背景に左氏珠山などの教育者の存在は無論、ドイツ人シーボルトの高弟二宮敬作の影が見え隠れする。敬作は保内町磯崎の生まれ。シーボルトに師事した人。富士山の測量などにも尽力し将来を嘱望された人であったが、俗世の風にはまったく無頓着な人だった。蘭方医として実に22年間も宇和に住み続け、身をもって人々を啓発したのである。宇和で恩師・シーボルトの娘イネを養育したのも敬作だった。イネは後に産科医として名を成し、宮内庁の御用掛を務めている。鳴滝塾の同窓・高野長英など敬作を慕って往来する志士も多く宇和の人々は大いに感化されたことであろう。
 敬作が学んだ鳴滝塾は、1823年、出島に来航したシーボルトが特別の許可を得て開いた私塾。医学、博物学などを教えた。鳴滝の邸宅跡に石垣が残り、老年のシーボルト像がある。近年、邸宅跡近くにシーボルト記念館ができ、関係資料が展示されている。資料も豊富である。
  米どころ宇和のPR施設として「米博物館」、「愛媛県歴史文化博物館」、「宇和町民具館」などがある。町から少し足を伸ばすと、南予の名刹明石寺、日本3大薬師の一つ山田薬師、名水観音水などある。−平成15年7月−
二宮敬作生家跡 シーボルト像(長崎)