伊予の段々畑(石垣のある風景)-東宇和郡明浜町,西宇和郡等−
狩浜の段畑(明浜町)
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  リアス式の入り組んだ南予の海岸線は、背後に標高100〜300メートルほどの山が迫る。耕地に恵まれない南予の海辺の人々は、傾斜角度30度にもなる山の斜面をも無駄にすることはなかった。
 戦前戦後の食糧難時代には、麦とサツマイモの二毛作によって人々の食生活を支えてきた。山中に累々と残る石垣はそうした食糧難時代の遺跡である。各集落に一軒はあったというエラさん(石屋)ともども、苦難の時代を支えてきたのである。
 今日、食糧事情は好転し作目は柑橘類に転換されたが、この地方の人々は、石垣の改修や増築を怠ることなく、営々として石垣を積み続けている。そうしてまた、天辺に至る見事な耕地を創出している。温暖な気候に加え、太陽と宇和海に反射する二つの太陽を得てミカンは育つ。近年では色やかたちの上品なニューサマーオレンジの栽培も盛んである。八幡浜、三瓶・・・等々。
 明浜町に狩浜という集落がある。農道をたどり山頂に立つと、幾千枚もの石段畑が眼下に広がる。まことに壮大なものである。農産物には競合作物が多い。モノレールの普及などによって生産性は向上してきているが、地形上の制約などからそれにも限界があることは誰もが知っている。大変困難な状況下で、ミカン農家の大地との格闘が続いている。
 山麓の農家の庭先では猫がまどろんでいる。南予路にゆったりとしたときが流れている。-平成14年2月-
東宮山古墳−四国中央市川之江町−
天飛ぶ鳥も使いぞ鶴が音の 聞えむ時は我が名問わさね <木梨軽太子>
東宮山
東宮山古墳
  四国縦貫自動車道三島川之江インターチェンジの東に東宮山がある。海抜80bほどの小高い独立丘を成す山。裾野は住宅と田圃が混在するのどかな田園地帯である。
  急な石段を登ると、山の頂上に直径約15bの円墳状の古墳がある。東宮山古墳と通称され、宮内庁の管理墓。 被葬者は允恭天皇の皇子・木梨軽太子。古事記は、同母妹の軽大娘女との道ならぬ恋の末、伊予に流され、太子はあとを追って当地にやってきた大娘女と心中したと伝えている。
  東宮山古墳はまた、内行花文鏡、金銀透彫帯冠、衝角式甲、馬鐸等々目を見張る副葬品が出土した古墳としてよく知られている。陪塚とみられる近くの古墳から弥生期の銅鉾などが出土している。
  古墳と木梨軽太子あるいは軽大娘女とのかかわりについて、古事記と日本書紀の記述が異なることなどから墳墓の比定等につき諸説がある。馬鐸など副葬武具の豊富さ、特異さなどから単純にこの王墓が武具の生産ないし流通に深くかかわった王族墓ではないかと考えてしまうが、その王こそが当地の豪族と何らかの縁があった木梨軽太子ではなかったか。中央での権力闘争の敗北や悲恋が重なって、太子縁の伊予に向かわせたのではないだろうか。いろいろと夢のある古墳である。-平成16年8月-