蒲生田岬(四国最東端の岬)−阿南市蒲生田−
  蒲生田岬は、四国最東端の岬。紀伊水道の対岸、日ノ御崎と対峙する岬である。お椀を伏せたような岬の周りは、断崖絶壁。岩山は、ウバメガシと椿が密生する風成林を成している。
  岬の北海岸から急な階段を登ると、頂上に蒲生田灯台が建っている。東方、6キロメートルの沖合いに伊島が、その少し手前に前島、棚子島が浮かんでいる。南西に阿南海岸、北西に橘湾を望む絶景地である。−平成16年12月−
蒲生田大池−阿南市蒲生田−
 四国最東端の岬・蒲生田岬の手前(西側)に、蒲生田大池がある。蒲生田(がもだ)の地名は、池に生えるヒメガマに由来している。池の西側に湿原が発達し、テツホシダ、ウキヤガラ、カンガレイ、ミソハギなどの植物群落がみられる。池周りには遊歩道が巡らされ、湿原観察路が整備されている。
  池の東側の遊歩道から、橘湾を借景にして眺める大池の眺望は大変美しいものである。岬周りには、蒲生田岬やアカウミガメの産卵上陸地などがある。
阿波沖海戦の記憶-由岐町等-
■ ドカーン、ドカーン、阿波の海に砲声がとどろいた。慶応4(1868)年1月4日昼ごろ、椿半島の東方、
伊島の沖(写真左上。伊島を望む)で幕府軍と薩摩軍の軍艦が激しく交戦した。洋式艦による日本初の海戦だった。幕府軍の軍艦・海陽丸の船将・榎本武揚は、若き日の東郷平八郎などが乗り組む薩摩軍の軍艦春日丸と輸送船・翔鳳丸になおも迫ったが日没を迎える。決着がつかないまま、翌朝1月5日、海陽丸は大坂に引き返した。一方、薩摩軍の春日丸は南下をつづけ薩摩に向かう。翔鳳丸は内車の故障により春日丸を離れ、椿の漁師の案内により蒲生田岬と伊島間の暗礁が多い難所・橋杭の瀬(写真左上)を通り4日夕刻、由岐に寄航。ときに、陸上では前日(1月3日)から鳥羽伏見の戦いが始まっていたが、僅か4日間の短期戦で幕府軍は敗退。第15代将軍徳川慶喜は、薩摩長州軍が大坂城に迫る不安から海陽丸の帰還を待ち望んでいたであろう。慶喜は、阿波から帰還した海陽丸の態勢を整えると、将兵を残したまま1月8日、松平容保ら数名の側近らとともに大坂城を抜け出し、天保山沖から江戸に脱出したのである。その際、海陽丸の船将・榎本武揚や軍艦奉行は乗船せず、副長・沢太郎左衛門が舵をとった。
 慶喜は海戦の前年(1867年、慶応3年)、大政奉還によって政権の座を退いたが大戦奉還後の新政権の大要がはっきりせず、いまだ日本の主権者のように振舞い、鳥羽伏見の戦が勃発。薩長の追撃は止まず、慶喜は大阪城を投げ出し江戸に敗走。しかし、榎本武揚らは慶喜と異なる思案もあり敗走を潔しとしなかったのかもしれない。
  江戸に戻った慶喜は、朝廷に対し恭順の姿勢を示し、自らは上野寛永寺大慈院で謹慎した。江戸に迫る東征大総督府参議西郷隆盛率いる東征軍との折衝を旧幕府陸軍総裁勝海舟に托するのだった。大坂から敗走して2ヵ月後、薩摩藩邸での両者の会談によって和議が成立し同年、江戸城は開城され明治元年を迎える。
 一方、海陽丸の船将榎本武揚は、北海道五稜郭に立てこもり最後まで新時代を拒みつづけた旧幕府軍の最後の人となった。春日丸で薩摩に戻った東郷平八郎は、後に日本海海戦(日露戦争)の連合艦隊司令長官をつとめている。
■ さて、薩摩軍の翔鳳丸を迎えた由岐の状況はどのようなものであったのであろうか。幕末における徳島藩は心情的に佐幕であったが、藩主蜂須賀家の内部事情によって洲本辺り(当時、淡路島は阿波藩)には尊王攘夷の思想に傾く家臣などもいて、はなはだ複雑な藩内の事情があった。かつ、海戦の前日から鳥羽伏見の戦いが始まり、討幕派の薩摩・長州が幕府軍と戦闘を交える中、翔鳳丸は由岐に寄航したのである。慶応4(1868)年1月4日、直ちに米田甚八(日和佐御陣屋役人)と翔鳳丸船長伊地知八郎との会談が由岐の光願寺でもたれ、乗組員40数名を船行組みと陸行組の二手に分け、船行組は仕立ての漁船で夜半のうちに由岐を去り、陸行組は日和佐を経由して土佐に向かうことになった。薩摩藩は、米田甚八の温情に感謝し、由岐の人々への後難をさけるためか由岐を去る際、ぬの島の島影に停泊する翔鳳丸を爆破。江戸藩邸から積み込んだ薩摩藩の財宝をすべて失ったと伝えられる。翌5日、幕府軍海陽丸乗組員によって薩摩藩士の捜索が行なわれたが、すでに旅立った後だった。
  由岐港周りに、「城山公園」、「阿波海戦小公園」、「米田甚八屋敷跡」、「光願寺」、「JR由岐駅・ぽっぽマリン」などがある。ぽっぽマリンに由岐町の案内資料が用意されているので、最初に立ち寄られるとよい。
■ 由岐は海人のよき伝統を伝える町。翔鳳丸乗組員に差し向けられた米田甚八の配慮や、明治25年(1892)年、暴風雨により暗夜、田井浜にうちあげられた米国汽船ノースアメリカン号乗組員を大荒れの海浜で命を顧みず救助した浜本兼太郎ら8名の勇気ある行動など思いを馳せるとき、ただただ感銘を受けるのみである。海の掟はこのような人々によって受け継がれているのである。
  由岐町の北東岸の伊座利(いざ)、阿部(あぶ)の地区は「阿波のいただきさん」のふるさと。コンブなど海産物の詰まった籠を頭上にいただき、四国、九州、関東など国内ははもとより海外にまで雄飛した女性たちのふるさとである。伊座利の浜で魚を干す女性の姿があった。「昔は陸の孤島でした。船たのみの生活でしたが、道路ができ便利になりました。いただきさんはいなくなりましたが、由岐のぽっぽランドに伊座利のいただきさんの写真が展示してあります。」と、地元の人。阿部では、木造の旧郵便局がいただきさんの昔日の面影を路地に映しているようにみえる。