阿波のいただきさん-由岐町伊座利、阿部-
  魚貝の行商をする女性を高松では「いただきさん」と呼ぶ。徳島でもやはり「いただきさん」という呼称がある。コンブやワカメなどの海産物を満載した籠を頭に載せ売り歩いた女性をそのように呼んだのである。
  頭上運搬はかつて日本で広く行なわれた運搬方法だった。瀬戸内海の島嶼部では、女木島や淡路島の灘村(南淡町)、阿部(阿南市)周辺では昭和30年代まで頭上運搬の風俗が残っていた。灘村の上灘地方の海岸部では、たらいに子供を乗せ小道をゆく頭上運搬の風がみられた。高見島で出会った古老は、頭上運搬を「カベル」と言う。頭上運搬の呼称は香川県や徳島県下においても地域差がある。
  日本では水や焚き木などの運搬は大体、頭上運搬が一般的であった。アイヌの人々は、ベルト状の帯を頭にかけ薪等を運搬し、子守などもこの方法で行なっていた(写真左右。古絵葉書より)。天草の下島では、頭上運搬とウェー(背負梯子)、フゴが共存し、山の浦集落は頭上運搬、久玉集落はウェー、深海村はフゴという具合に、近接の集落であっても風習を異にしてい
た。頭上運搬は沖縄、奄美を経て伝播した南方の民俗、ウェーは朝鮮半島から伝播した民俗、フゴはアイヌの民俗と近似性がある。天草には、文明の十字路を彷彿とさせるものがあった。
  頭上運搬は、私たちが想像するほど楽なものではない。重労働だった。トカラ列島の沖永良部島では、簡易水道が普及する昭和30年代まで頭上運搬が行なわれ、水汲みはもっぱら女子の仕事とされた。ジョッキヌホー(水汲み場)から門口まで、30`にもなる水桶を少女たちは軽々と運んだと古老はいう。
  徳島においては、いただきさんによる「行商」が江戸期から昭和期まで行なわれていた。いただき行商は女性の仕事とされ、練習を重ね徐々に重量を増し、20歳にもなると50〜60`ほどの籠をいただく者もいた。明治期になると、行商先まで汽船や汽車で荷を送り、そこからコンブなど海産物を詰め込んだ重い籠を頭上に載せ各地を巡った。立ち寄り先は、室戸、高知など四国島内はむろん海外にまで広がっていったという。
  由岐町伊座利や阿部あたりのいただきさんは、カスリの着物を着て、黒の手甲、白のきゃはんに赤のタスキがけ。大原女に似た清楚ないでたちだった(写真左、古写真から)。頭上の大きな籠の左右にひもを垂らしたイキな姿は阿南のいただきさんの象徴だった。
  JR牟岐線由岐駅の「ぽっぽマリン(駅舎2階)」に、いただきさんが行商に使った籠、写真パネルや行商風景のジオラマが展示されている。阿南方面に旅行の向きには、ぽっぽマリンを一見され伊座利や阿部などの美しい海岸線を尋ねるのもよいだろう。−平成16年−