風早の古社−松山市八反地、庄等(旧北条市)
国津比古命神社(八脚門)
櫛玉比売命神社
薬師堂
 近年、松山市との合併で北条市の名が消えた。歴史を刻んでいた小字の名も住居表示から消えてしまった。これもまた改革と進歩であるのだろうが、地名に愛着をもつ者には一抹の寂しさを禁じえない。北条は風早と呼ばれた古い土地だ。中世には河野氏が本拠地としたところ。延喜式内社や県下最古の仏像はこの風早地方にある。
 国津比古命神社はJR伊予北条駅の東、立岩川の左岸、八反地にある。単層、入母屋造りの八脚門を備える。社の右隣(南側)の神社が櫛玉比売命神社。両社はいずれも延喜式内社。由緒のある古社がそろって鎮座する不思議は、この地方が伊予灘、安芸灘を睨む瀬戸内海の要衝にあり、かつ豊かな平野を抱える土地であったからだろう。
 神社を出て立岩川の金比羅橋を渡ると、たんぼの中に庄集落の薬師堂がみえる。収蔵庫に木造菩薩立像、木心乾漆菩薩立像など約40体の仏像が安置されている。木造菩薩立像、木心乾漆菩薩立像の二体は県下最古の仏像である。木造薬師如来坐像は、薬師堂の本尊。座高2.5メートルあり、県下最大の仏像でもある。仏像群は10世紀〜12世紀のものとみられているが、これほどの仏像群と小さな薬師堂がいかにも不釣合いにも思われ、往古この辺りに大伽藍が存在していたに違いない。
 国津比古命神社の南東、立岩川左岸の高田集落の丘に光徳院がある。藤原期の木造阿弥陀如来立像、木造聖観音菩薩立像、金剛界曼荼羅などが安置されてる。
国造神社−三瓶町朝立−
  三瓶町の中心地、朝立に国造神社(写真左)がある。三瓶の町名の由来とされる三個の瓶と一緒に火寄崎(現三瓶町日吉崎)に漂着したと伝えられる剣、鼓のうち鼓は国造神社に祀られる。瓶の方は、宇和町岩木の三瓶神社に祀られ、剣については所在不明であるらしい。この瓶と鼓が宇和の三瓶神社と三瓶の国造神社に別々に祀られるようになった経緯につきこの地方に源平時代を舞台とした伝説が伝わる。
  瓶は三瓶でなくなぜ宇和(平野)に祀られているのだろうか。伝説の背景に、海浜部(三瓶)から平野部(宇和)に進出した海人の歴史或いは交易を通じた両者の親密な関係が示唆されているように思われる。その起源は源平時代をはるかに遡るのではないだろうか。
  瓶は塩(製塩)の象徴ではなかったか。坂出塩田の功労者久米通賢を祀る坂出神社の社殿に製塩土器(写真左した)が保存されている。多分、三瓶の海浜部においてもこのような土器を用いて製塩が行なわれたのではないだろうか。三瓶の呼び名は製塩土器の「御瓶」の意であるかもしれない。塩は、三瓶から宇和に運ばれる交易品の代表格であったのだろう。一方、鼓は、素材の構成から木工、製糸、皮革加工等の技術を持つ集団(宇和)の存在証明と考えられなくもない。宇和から衣料、神具等々の製造加工品が三瓶へ運ばれた証と考えられないものか。三瓶と宇和の幾久しい交易の願いを瓶と鼓によって確認しあい、神宝はいわば自村にない他村の品目を相互に祀ることによって、幾久しい友好の証としたものではないだろうか。50年に一度、宇和(三瓶神社)から三瓶(国造神社)へ遷幸(直近では昭和61年に遷幸)がある。これもまた、両町間の交易の記憶をうつすものではないだろうか。
  朝立の丘に建つ国造神社の鬱蒼とした社叢にクス、クロガネモチなどの大木が茂り、ヒトツバ、クマタケランなどが林床を埋めている。国造神社は、この地方を代表する温帯性植物の植物園的な社叢である。−平成17年−