茂兵衛の風景−周防大島町久賀町椋野−
 茂兵衛堂
 椋野のシイ林
 周防大島の久賀町に椋野という在所がある。半農半漁の村は、他の芸予諸島の島々のように村の背後の山腹に築かれた段々畑が天辺に至る純農村地帯である。
 桜が散るとこんどは5月の連休の頃、シイの花が野山を埋める。もっとも、よく耕された耕地はシイの侵食を許さない。したがって褐色の金波は神社の境内地や村落の入会地でその存在を主張するのである。その風景は照葉樹林を棲家とした私たちの祖先の原風景だ。弘化4(1847)年、四国遍路の先達、中務茂兵衛が当地で生を受け、四国へ渡ったのは19歳の春だった。 
 
 遍路路の道標
 
 玉泉寺の道標
 江戸から明治期にかけ歩き遍路一筋に生き、生涯を閉じた人だった。22歳ころから76歳で没するまで50年余、故郷に戻ることもなく遍路を続け、280回に及ぶ四国巡拝を果たした遍路の大先達である。翁は遍路道に240基余の道標を建て、歩き遍路の便宜をはかった。志度寺から長尾寺に向う遍路路(写真右)や長尾寺の奥の院玉泉寺の境内(写真右)などに茂兵衛翁が建てた道標がいまも残っている。世界に類例のない四国巡拝の風は、そうした茂兵衛ら先達の功労によるところ大である。翁は実に地球から月までの距離・38万キロ余をはるかに越える距離を歩き、遍路した人だった。300万年の人類史上、もっとも長い距離を歩いた人ではないだろうか。私たちはひたすら歩き続けた茂兵衛の遍路にかける愛と信とを思わなければならない。
 眼前に茂兵衛の故郷、椋野のまことにのびやかなよい風景がある。
 椋野の山腹に、茂兵衛の墓所と茂兵衛堂(写真上)がある。茂兵衛堂は20数年前に建立された。毎月21日の縁日には、多くの参詣者があるという。−平成18年5月−