カキまつり−大竹市晴海−
カキ祭り風景 安芸津、呉、音戸、江田島、坂町、地御前、大野、大竹・・・広島の瀬戸内沿岸にカキロードが連なる。広島はカキの名産地。冬場の1、2月は身が太り、1年のうちでも特にカキの美味しいシーズン。
 カキの試食と販売をかねて各地でカキまつりが催されるのもこの季節。カキまつりは広島の冬の風物詩。バザー、露店、海産物、カラオケ、演舞などが催され、大勢の人で賑わうカキまつりは、冬期のふるさとのまつりとしてしっかりと広島に根づいている。
 1月28日は大竹市の晴海公園で「おおたけカキ水産まつり」が開催された。焼カキ、ハマチの刺身が振舞われ、カキ飯、カキフライ、カキ雑炊などカキづくしの内容。亀居城太鼓やよさこいにっぽん山鼓童演舞(岩国市)、もちまき、カラオケ発表会など舞台は賑やか。鮮魚の販売やフリーマーケット、ミニSLの乗車体験コーナーなどもあり、まつりはしこうも豊かに午後3時頃まで続いた。−平成19年1月−
郡山城−安芸高田市吉田町−
郡山城跡
郡山城跡
 郡山(標高389b)の頂上に築かれた郡山城は、毛利元就が中国制覇の本拠地とし、山陰の尼子氏、周防の大内氏と交戦し、その子隆元、元春、隆景の力を得て、中国統一の夢を追い求めたところ。本丸、二ノ丸など270段にも及んだ曲輪群が全山を覆っていたという。
 関が原の戦に敗れ、毛利氏は防長に転封。元和2(1616)年、一国一城令により郡山城は壊された。山頂の本丸址(写真左)や山麓の毛利元就の墓所が緑陰の中にある。
 毛利氏は、鎌倉幕府の功臣大江広元の四男季光にはじまる家系。承久の乱後、吉田荘の地頭職を得た。一族は南北朝の頃から次第に吉田盆地の外縁部に勢力を伸ばしてゆく。
 元就が武名をあげたのは大内義興の配下にあった頃、武田元繁を自刃に追い込んだ。時に元就21歳。元就は大内氏に忠誠を誓い武勲を重ねるていくが、大内氏の内紛から家老陶晴賢が謀反し主君を自殺に追い込むと、晴賢が大内氏の実権を握るようになる。天文23(1554)年、元就はついに挙兵し、己斐(こい)、草津の諸城から陶方の兵を叩き出し、厳島において晴賢を自刃に追い込み戦を制した。この時、因島、能島、来島の村上水軍が毛利方につき、制海権を失った陶氏は退路を断たれ厳島で全滅するという惨劇に至った。厳島という瀬戸内海の要路を抑えようとした陶氏の戦略は、期待していた能島、来島の村上水軍がさそいにのらず裏目がでたのである。厳島の戦の勝利によって、元就は大内氏の全遺産を引き継いで防長両国を手に入れたのである。
 さらに元就は、尼子氏を倒し、石見・出雲を領国に編入し、膨大な所領を支配するようになる。元就の死後、版図は備中、伯耆にまで拡がった。隆元の弟吉川元春、小早川隆景らによって着々と統治機構を整え、毛利氏は日本屈指の戦国大名となり、国運を左右する力を蓄えてゆくのである。
 元就が61歳のころ、三人の子(隆元、元春、隆景)に与えた教訓状は、慈父の至上と周到な備えを説いたものとして有名である。三兄弟は連署して教訓状の請書を元就に差し出している。−平成18年7月−