広島の石垣田−広島県一円−
石垣田 広島は平野に恵まれない土地柄である。山腹や河川の段丘に石垣を積み、耕地を捻出し、水稲を栽培してきたところも多い。
 土質は風化した花崗岩。それがフィルターの役目を果たし、県下いずれの土地においても、広島の水はおいしく、湧水には名水と賞されるものが実に多い。
 また、風化花崗岩は鉄穴流しによる砂鉄の採集にもよい条件を備えており、薪炭の豊富な山県郡辺りは古代から近世にかけ、たたら製鉄の一大産地をなしたのである。 
 しかしまた、急峻な地形は崩れやすく、必然的に石垣を必要とする。県下の集落を歩くと、とりわけ太田川水系の安佐北区の石垣田は、一大奇観を呈し、細谷の奥にまで石垣田が続き、鈴張地区に達している。等高線に沿って一枚一枚積上げられ、5段、6段と高度を増すほどに、石垣田は貯水機能を持ちはじめ洪水などによる山腹崩壊を防ぐダムの役目を果たしている。石垣田に、急峻で河川の流路が短く、洪水や土砂災害を招きやすい地形への先人の知恵がいきている。−平成18年6月− 
 横島の平和塔−福山市内海町横島−
横島の平和塔 沼隈半島南端の西方に横島という島がある。隣島の田島と対になり内海町を構成する島である。田島との間に睦橋、田島と本土間に内海大橋が架かり、本土とつながっている。釣りやマリンスポーツ、海水浴客で周年賑わう島である。
 横島の町角に、就職記念塔と高さ3メートルほどの平和塔(写真右)がある。前者は昭和5年、後者は同24年に立てられた。平和塔にはめ込まれた時計は、今なお正確な時を刻み続けている。
 就職記念塔は尋常高等小学校高等科、平和塔は青年学校生が当村に奉献した大事なもの、と島の人。平和塔の名称から、塔は原爆犠牲者への慰霊の趣旨もあったのだろう。青年学校は、学校教育法の制定により戦後まもなく新制の中学に編入されたかと思うが、昭和24年ころはまだ青年学校だった。農漁村では、腕時計をして作業をする習慣が当時はなく、時計台は人々と苦楽をともにして、いまも正確な時を刻み続けている。−平成18年6月−