広島−先の大戦のあとさき
大本営跡
議事堂
 瀬戸内海のほぼ中央に位置し、北を中国山地、南を四国山地の擁壁に囲まれた広島は、アジアや欧州の列強諸国から我国を防衛し、海外に進出する拠点としてくいち早く軍部に注目されたところだった。
 明治2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県の大改革を進めた明治政府は、翌5年に徴兵制をひき、同6年には広島城内に鎮台を置くにいたった。明治8年には歩兵第十一連隊が内掘を挟んで鎮台の東に展開し、同9年に萩の乱、翌10年に西南戦争に出動。十一連隊の北隣には広島幼年学校があった。さらに、明治20年代になると鎮台は師団を経て第五師団司令部にかわってゆく。明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると大本営が城内に置かれた。明治天皇の広島滞在は、明治27年9月から翌年の4月まで7ヶ月間におよんだ。この間、明治27年10月18日、広島西練兵場につくられた国会議事堂(写真左、現県庁付近)で臨時帝国議会が召集されている。会期は4日間。臨時軍事費予算案などが全会一致で可決、成立している。
 一方、海軍はどのようであったか。明治21年、海軍兵学校が東京から江田島に移され、同22年、呉鎮守府が開庁された。同時に呉鎮守府造船部が開設され、明治36年開設の呉海軍工廠の母体となって戦艦「長門」や「大和」を建造するなど帝国海軍の軍港都市として立地するようになり、広島は、次第に陸、海の軍都としての性格を強めていった。
 日清、日露戦争において戦勝国となった日本。先の大戦で日本は主要参戦国ではなかったが、樺太から南太平洋に至る諸地域の委任統治を行った。昭和時代に入り、日本資本の中国進出と軍事支配の圧力などによって昭和6年に満州事変、翌7年には上海事変が勃発。やがて日華事変・太平洋戦争(先の大戦)へと発展するのである。真珠湾攻撃など緒戦の大勝で熱狂した日本は戦勝国となることを信じたが、次第に戦況は悪化。老幼婦女を疎開させ、ついには本土決戦へと発展する。戦争最末期の昭和20年4月、広島は西日本(鈴鹿山系以西)の防衛を担当する第二総軍司令部が置かれ、同6月には中国地方総監府が置かれた。本土決戦の一大拠点となったのである。戦況は日増しに深刻な事態となり、連合国は7月26日、日本に対しポツダム宣言を発出。翌8月6日午前8時15分、マリアナ諸島のテニアン島を飛び立ち広島東方から侵入したB29 1機が市の中心部に原子爆弾を投下。細工町上空570メートルで原爆はさく裂。一瞬にして町は全壊、半径2キロメートルの全壊全焼地帯は原始砂漠と化し人類が経験したことのない未曾有の惨事となったのである。日本はポツダム宣言を受諾し敗戦が確定。同時に広島は、長く続いた軍都の使命を終えた。
 大本営の廃墟に立つと、再建された広島城の天守閣の傍で、じりじりと照りつける夏の陽が白々とした礎石を焼いている。本丸近くに、原爆で破壊された半地下式の中国軍管区司令部の地下通信室の残骸が残っている。この通信室で、防衛通信に当たっていた軍人、軍属と学徒動員の比治山高等女学校の生徒が非業の最期を遂げた。市内の電話通信網は全壊したが、かろうじて残ったこの施設の軍事専用電話を使って広島壊滅の一報を伝えたのは、比治山高等女学校の生徒だった。草むした通信室の前に千羽鶴が絶える日はない。