尾道水道−尾道市−
尾道水道 尾道は「みなと尾道」と呼ばれ港とともに発展してきた町。せまい水道を渡船が対岸の向島にせわしなく往来し、商船が巨体を水道に滑らせてゆく。水深の深い水道は、波頭を押さえ、不気味なほど静かである。
 尾道は、かつてはリヤカーをひいて、通りで魚貝の行商をする数十名の女性たちがいた。若い女性たちは、魚の名前は無論、魚のさばき方から煮炊きのこつまで行商の女性から学んだという。しかし今、行商の女性たちは、高齢化や流通環境の変化などによって激減した。「市場が移動し、開場も早くなり、3時起きの仕事はつらい。そうじゃねもう7、8人になったかねぇ」と、行商の女性。腹ごしらえに天ぷら3枚を食する。
 センター街から国道2号線にでて山手を見上げると、急坂に人家がへばり付いて天辺にいたっている。
 傾斜地の住宅地は日当たりがよく、風通しもよい。これほど暮らしやすいところはない。まして、風光明媚とくればいうことはない。足腰さえ丈夫であれば、いつまでも住み続けたくなるもの。尾道はそうした条件をよく満たしている。
 尾道は、鎌倉時代のころから甲山町を中心とした高野山領大田荘から収納する物資の運搬港、倉敷地として栄えた。過密な人口密集地に浄土寺、西国寺、千光寺の尾道三山など仏閣が林立する。30ヶ寺ほどもあろうか。浄土寺は因島を知行したこともある名刹。創建は推古24年(616年)と伝えられる。
 浄土寺は、九州に西下し、多々良浜の戦で戦勝をおさめ、後に室町幕府を開いた足利尊氏とその一門の篤い信奉を得た寺。尊氏が暦応元年(1338年)、征夷大将軍に就くと、尊氏によって地頭職の寄進などが行なわれ、一門による仏舎利の奉納なども行なわれた。境内に、足利尊氏の墓と伝えられる法篋印塔などがある。
 また、尊氏の西下或いは東上に、この海域をよく知る水軍が関わった。吉和の漁民水軍がそれであるという伝承が地元にある。隔年ごとに行なわれる吉和町太鼓おどりは、尊氏の戦勝にちなみ浄土寺本堂前で奉納される勇壮な祭り。尊氏は、浄土寺、水軍の加護を得て、瀬戸内海を往来中は、ただの一度も戦闘をまみえることはなかった。
 山上から望む尾道水道は、絵葉書のように美しい。岸壁から水道を眺めるのもまたよいであろう。−平成18年5月−