御手洗(大崎下島)−呉市豊町−
 大崎下島の御手洗は潮待ち、風待ちの港として藩政期に栄えた港町。
 瀬戸内海の海道は、もとは西国街道が通る本州につかず離れず航行する地乗りであった。しかし、寛文年間(17世紀中葉)に河村瑞軒によって西廻り航路が整備されると、航路は、瀬戸内海の中央部を航行する沖乗りに変わった。御手洗はそうした航路の開発によって寄航する船が増え栄えた港町だ。
 対岸の岡村島は天然の防波堤。波静かな海峡は千石船がイカリをおろし、千砂子波止は諸国の船乗りで賑わい、波止周りには船宿が建ち並び、御手洗は海上の一大都市をなしていたのである。街中へ入ると神社や茶屋が建ち並ぶ繁華な市街をなし、旅人は大いに安堵したことであろう。 
 御手洗は九州諸藩の大名やシーボルトなど長崎商館長、吉田松陰、坂本竜馬、中岡慎太郎、大久保利通など長崎や江戸に向かう旅人が留まった歴史に染まった街。一茶が二度までもたずねたという俳人樗堂が晩年、庵を結んだのも御手洗だった。
 御手洗はまた、その隔離性からしばしば諸藩の交易場となった。広島藩は薩摩藩から莫大な借金をして軍艦を築造したが、御手洗で借金の返済が行なわれ、長州藩との条約(御手洗条約)も当地で締結された。文久3年(1863年)8月、京都の政変で三条実美ら七卿が京都を離れ、流転の下向中、身を寄せたのも御手洗。御手洗は海上の政治都市の様相を呈していた。石畳の路地を歩くと、若胡子屋など漆喰を塗り込めた妻入りの重厚な店構えの茶屋や商家が歴史を秘めて軒を連ねている。御手洗遊女、船後家(オチョロ舟)など、御手洗は、その繁栄ゆえに女性の哀史が綴られた街でもあった。−平成18年5月−

往時の御手洗港