九州絶佳選
長崎
壱岐の島まわり
 南北17キロメートル、東西15キロメートルと亀の甲羅のようなかたちをした島は、白砂の海岸と奇岩怪石の断崖がほどよく混ざり合い、浦々に漁港が発達した特異な海岸線を成している。
 断崖の圧巻は島の東部に突き出た右京鼻(芦辺町)であろう。崖下の沖合いに柱状節理を成す玄武岩がそそり立ち、冷え冷えとした冬景色を描き出している。岩のりを掻く音が波音の隙間から聞こえている。
 勝本漁港は島の最北端の港。将軍の代替わりの都度来日した朝鮮通信使は、対馬の府中を発つと、壱岐の勝本を次の寄港地としていた。いまは朝市などで賑わうところ。背後に山塊が迫り、その中腹で松尾芭蕉に同行し奥の細道を巡った蕉門十哲の一人河合曾良が眠っている。巡見使の随員に雇われ壱岐まで来た曾良は、勝本で病没したのである。
 このとき、巡見使は、徳川家が家宣に代替わりしたため、諸国の政情を巡検する役目を負った。高齢をおして曾良がどうして一行に加わったのか理解に苦しむが、「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」の句をつくって江戸を後にしている。曾良は延喜式を読み芭蕉に神社の情報を提供するほどの人であったから、歴史のある筑紫によほど興味をそそられたのであろう。しかし、病を得た曾良は対馬に向かわず、勝本にとどまり中藤家の世話になり、壱岐に上陸してから16日ほどで亡くなっている。享年62歳だった。
 曾良の墓は中藤家の墓所の一角に造られ、勝本漁港が見渡せる眺望のよいところにある。曾良は長野県の諏訪の人。2年ほど前、地元の諏訪市から諏訪大社の式年造営御柱大祭(平成10年)で建てられた御柱(写真右)が贈られ、城山公園(勝本城址)に建っている。
 島の南部、郷ノ浦海岸の夕暮れや屏風岩(石田町)辺りの海岸線もなかなかよいものである。−平成18年1月−

勝本漁港

河合曾良の墓

郷ノ浦の夕暮れ

屏風岩あたりの海岸