九州絶佳選
宮崎
飫肥城址雑感-日南市飫肥-
 飫肥おびは、明治初年まで280年間続いた伊東氏5万1000石の城下。武家屋敷や石垣に往時を偲ばせている。
 近年、大手門、松尾の丸などが復元され、歴史資料館なども整備された。飫肥城下見学のよい環境が整っている。
 大手門近くに、藩主の住まいとして明治初年に建てられた豫章館の枯山水など眺めると、飫肥の人々の高い文化的嗜好とともに、借景とされる山々の美しさにみとれてしまう。やがて、その山々の美しさが飫肥杉であることに気付く。
 旧本丸跡や城の石段の間隙から生えでた杉(写真)に、飫肥杉の本質を感じとることもできるであろう。成長が早く、30〜40年で伐期齢に達するという。分収造林が盛んなのもこうした良質の木材が市場で高い評価を受けている所以からであろう。旧本丸跡の杉林の樹下に立たれよ。憑き物が落ちるような清々しさがある。
 1905年(明治38年)、日露戦争の日本側全権としてポーツマス講和会議に出席した小村寿太郎は飫肥藩の出身である。新聞各紙は講和反対を唱えた。戦勝国であったはずの日本が樺太全土の領有を断念し、軍事費の賠償要求も撤回する等の会議経過が伝えられ、露国に譲歩することへの国民の不満が嵩じたのである。このような状況下で、小村は実に27日間を費やして条約に調印した。戦争継続への懸念が小村の調印成就への執念となっていたのであろう。明治末年、小村家は破産したが、飫肥の人々によってその生家が城下の一角に移築、保存されている。
 飫肥は、武家屋敷や町割の石垣など通りに城下の良い雰囲気が漂っている。鹿銀記念館など明治〜大正期の建物かと思われる木造建築物にもよいものがある。

飫肥城大手門

小村寿太郎生家

鹿銀記念館

分収造林組合連合会