大阪
由義宮−八尾市弓削−
渕も瀬も 清くさやけし博多川 千とせをまちて すめる川かも
乙女らに 男立ちそい ふみならす 西のみやこは よろず代
の宮                      <続日本紀>
 大阪府下に八尾市弓削というまちがある。奈良時代に由義宮が営まれ、詔して西京とされた。今の由義神社の境内に由義宮旧址の石碑(写真左)が建っている。当地は弓削道鏡の本貫地である。道鏡は若い時、郷里の南東、葛木山に入って修行し、如意輪呪法を習得したとされる。良弁や義渕僧正について仏教知識を身につけ、近江保良宮(紫香楽)にいた称徳上皇の看病禅師となり、天皇の病気をなおして以来、天皇の寵愛を得るようになる。
 政敵恵美押勝が失脚すると、道鏡はとんとん調子で栄進し、称徳天皇の由義宮への行幸が重なるたびにその地位もあがっていく。太政大臣禅師に上り詰め、神護景雲3(769)年には有名な「道鏡を天位につかせたならば天下大平ならん」という宇佐八幡の宣託が発せられる事態となった。和気清麻呂が宇佐八幡に出向き、宣託は否定されたが、その後も天皇の道鏡への傾倒は変わらず、由義宮への行幸が続く。宝亀元(770)年3月、由義宮に行幸した天皇はそこから数キロ離れた博多川(大和川支流の石川)に行幸し遊覧したことが続日本記にみえる。このとき葛井、船、津、文、武生、蔵の帰化人六氏の男女230人が歌垣に奉仕している。青摺りのきものに赤い帯を締め、男女が二列になって行進し、冒書の歌をうたい、歌の切れ目ごとに袂を挙げて舞ったとしるされている。情景が目に浮ぶようだ。
 その後、天皇は体調を崩し、4ヵ月後に崩御する。道鏡は捕らえられ、造下野国薬師寺別当に任じられ、宝亀元(770)年8月21日、即日出発させられた。その5日後には、道鏡の本貫地河内職を解き、もとの河内国に戻している。この政変の背後に、どろどろとした権力闘争の臭いがしないでもないが、道鏡もまた権力への酔人であったのだろう。由義宮近くを流れる長瀬川の川岸でヒガンバナが真っ赤に燃えている。−平成20年9月−
石川 長瀬川