近畿風雲抄
奈良
衾道に思う−天理市中山町−

衾道ふすまぢ引手ひきての山に妹置きて山路を行けば生けりともなし
                < 万葉集  柿本人麻呂 >

 大和の青垣に沿って「山の辺の道」を大神神社辺りから北に向かい、桧原社を過ぎ穴師の里を辿り、国中を見下ろしつつ行くほどに景行天皇陵、崇神天王陵とつぎつぎに、いやつぎつぎと古墳が連なり、中山・萱生(かよう)の里あたりで立ち止まればそこは千塚をなすところ。
 竜王山麓の田植が終わった田面に手白香皇女(継体天皇皇后)の衾田陵(写真左)が影を落としている。全長234メートルの前方後円墳はこの辺りの丘陵でも目だって大きなものだ。
 人麻呂もまた亡妻を衾道に葬ったものか。標記の詠歌をのこしている。歌の引手山を竜王山と考えると「衾道を引き手」の句は単なる枕詞でなくなる。万葉集にみえるこの歌の少し前に人麻呂の「泣血の哀慟歌」がおかれている。これは人麻呂の妻の死を悼む哀慟歌であるのだが、衾道の歌はその後におかれ、さらに「吉備津采女」や「讃岐の狭岑島の死人」の挽歌へと継いである。人麻呂のこの一連の挽歌の構成に人的の遠近も認められ、衾道の歌はどうも人麻呂自身の妻ではなく大和の庶民一般の「妹」の死を表出させたものと考えられないか。文武天皇4(700)年に僧道昭が火葬されているが、火葬がすぐに庶民の葬制に移行したとは思えない。そうすると、竜王山の山上やその付近に死人を遺棄する風が残っていたのではなかろうか。だからその様は、「生けりともなし」であったのだ。陵の近くに「衾道」の歌碑がある。田面の脇に一人、二人、山の辺の道を行く人が見える。−平成20年6月−

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