奈良
城上きのえの宮−北葛城郡広陵町−
新木山古墳 骨肉相食む古代最大の内乱を制した大海人皇子(天武天皇)。持統10(696)年、大海人軍の総指揮官として名をなした太政大臣高市皇子は逝った。殯宮は皇子の宮殿、埴安の御門で営まれた。咽び泣く舎人らの慟哭が聞えるようだ。葬列は香久山の西方にいとなまれた御門から百済の原を行き、皇子は「城上の宮」に葬られた。
 人麻呂は、147句を継ぎ継ぎに、「城上の宮を常宮と高くしたてて神ながらしづまりましぬ…」と万葉集中最長かつ壮大な長歌をもって皇子の薨去を傷むのだった。皇子の葬列は百済の原の西方で城をなす馬見丘陵のどこかに築かれた高塚に向い、葬られた。そこは巣山古墳や新木山古墳(写真上)の巨大前方後円墳が所在し、小丘墳も多いところだ。丘陵の北方には大和川の流れに沿うようにして大塚山古墳が所在。そこは山の辺の道辺りの陵墓群に対峙する墳墓地帯である。
 高市皇子の城上の宮を巣山古墳や新木山古墳などに比定するむきもある。諸陵式に、皇子の陵は「三立岡。高市皇子。・・・兆域東西6町南北4町」と記載されている。東西5町の大内陵(天武・持統合葬陵)との対比から、高市皇子のそれを巣山古墳や新木山古墳のような巨大古墳に比定されるのであろう。しかし、皇子の時代は古墳時代の終末期にあたり、巣山古墳や新木山古墳とは考えにくい。しかし、諸陵式にいう東西6町南北4町の兆域は尋常ではない。たぶん、大内陵などと同様に、広大な兆域に田畑なども含んでいたの可能性もある。いずれにせよこの丘陵のどこかに古代の英雄が眠っている。−平成19年6月−