奈良
大安寺と道慈−奈良市大安寺町−
相思はぬ 人を思うは 大寺の 餓鬼の後に ぬかつくがごと 〈笠郎女 万葉集608〉
 笠郎女はかつて大伴家持と関係のあった人のようであり、万葉集に都合28首、家持に贈った歌がみえる。時に和歌に激情を託することもあり、標記の歌で別離の予感を激白し、続く2首(609〜610)で別離後の未練を歌う。これに対し、家持の返歌が2首(611,612)みえ、‘我が胸いぶせきあるらむ’(611)と真情を滲ませつつ、終に‘黙(もだ)もあらましを’(612)と歌い、郎女との出会いに後悔の念すら滲ませる。もっとも古代の恋愛感情は今日とは異なるので、両者の鷹揚とした戯れ歌然とした雰囲気がないでもない。
大安寺旧跡
大安寺旧跡
大官大寺跡
 歌中の「大寺」は大安寺を示したものであろう。歌がつくられた天平初期に東大寺は建立されておらず、大伽藍を備えつつあり皇室と結びつきの深い大安寺が大寺と称され、880人余の僧が生活したという。度重なる災禍から今日、大安寺境内(写真左上)にささやかな御堂が建つのみであるが、寺周りの塔跡や僧房跡など伽藍遺構に接し、ようやく私たちは往時の威容に気づくのである。
 大安寺は、天平元(729)年、聖武天皇が道慈に勅して造立させた寺。その起源は飛鳥時代に遡る。始め、聖徳太子の遺志により熊凝精舎を百済川の辺に移し百済大寺を建立。天武天皇2(673)年、寺を高市(飛鳥)に移建し大官大寺(写真右下)と号するようになり、九重塔を建立し金堂に丈六仏を安置。さらに平城遷都とともに聖武天皇は天平元年、道慈に勅し、寺を中国の西明寺(天竺の祇園精舎の模造)のエレベーションやプランをもとに建立させ、天平17(745)年に完成。大安寺と号されるようになった。
 道慈は大宝元(701)年に遣唐使として入唐。遊学16年。三論、法相や虚空蔵求門持法を修し,工巧にも妙なるものがあった。帰国後は釈門の秀者は律師・道慈と小僧都・神叡といわれ、ともに時政を助けたという。大極殿で金光明最勝王教を講じ(続紀)、天皇は大安寺造営成るや大いに喜び、大法会が開かれ、道慈を権律師に補し、食封150戸を賜っている(扶桑略記)。道慈の得た虚空蔵求門持法は弟子に伝えられ弘法大師らに師承された。弘法にとって祖師である道慈への思い入れは相当のものであったらしく崇敬の対象としたし、天長6(829)年には大安寺別当に補されている。大安寺縁起は寛平7年、菅原道真が撰している。天平期の仏像も十数体ものものが残っている。東大寺の艶麗なものとは対照的にむしろ唐招提寺風の高遠、威風の趣がある。これもまた、在唐歴が長く硬骨と評されることもあった道慈の真情を映しているのかもしれない。日本史は時に傑出した人物を得るのであるが道慈もまたその一人であろう。大安寺周辺はまだ田園情緒が残るところ。のんびり過ごす日があってもよいだろう。−平成20年1月−