奈良
安騎野の風景(軽皇子と人麻呂)-宇陀市大宇陀区-
ひんがしの野のかぎろいの立見えてかえり見すれば月かたぶきぬ  〈万葉集  柿本人麻呂〉
安騎野
安騎野
安騎野
 宇陀市の大宇陀区に阿紀(あき)神社がある。社名にのこる安騎野は柿本人麻呂が詠った安騎野の故地。本郷川を挟み、神社の南に細長い台地が横たわり、標記の歌碑がある。この台地こそ軽皇子が狩されたところと説かれる。鷹狩りにせよ、弓矢の狩にせよ、見通しのよい台地は狩の適地であったろう。
 神社の北側山麓の民家の佇まいが、安騎野の景観を一層懐かしく、美しいものにしている。大和棟の民家も残っている。また、この山麓から望む安騎野の風景も捨てがたい。宇陀の山中に花開いたのびやかな高原は、飛鳥人ならずとも人々の心を捉えて離さない。のんびりと田園で過ごす日があってもよいだろう。
     軽皇子と人麻呂のこと
 (かる)皇子は後の文武天皇。人麻呂は草壁皇子(父天武天皇)が早世した後、草壁皇子の子軽皇子に仕えた。冒頭の歌は軽皇子が安騎野に狩をした時、古の草壁皇子が重なってひとしおの情感を長歌1首と短歌4首に滲ませる。
 冒頭の歌は短歌中の1首。安騎野の自然を前にして厳粛かつ雄大、長閑の趣を詠う。人麻呂の短歌中の秀歌。万葉集を代表する短歌であろう。
 この時期、壬申の乱の混乱が尾を引いていた。勝者は近江朝の天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)であった。その子高市皇子は戦の最大の功労者。さらに天武天皇には草壁皇子や大津皇子など多くの皇子がいた。皇子の母はそれぞれ異なったが血統の良い鸕野讚良皇女(後の持統天皇)の子草壁皇子が後継の最有力者とされ皇太子となった。草壁皇子の母は鸕野讚良皇女の異母妹で天智天皇の子阿閇(あべ)皇女だった。鸕野讚良皇女は草壁皇子を将来は天皇にと期待したが早世。その子軽皇子に期待を寄せたが、草壁皇子の異母兄大津皇子(母大田皇女。鸕野讚良皇女は異母妹)がいた。大田皇女は早世し大田皇女の姉大来皇女は斎宮となった。
 大津皇子は後ろ盾を失ったが文武両道の好青年。皇子が政治に参加するようになると、なぜか讒言にあい自害。皇太子草壁皇子も早世する。鸕野讚良皇女は自ら天皇となり草壁皇子の子軽皇子の成長を待った。高齢であったが天武天皇の子高市皇子も薨去。軽皇子は即位し文武天皇となった。血統がよく後宮の実力者で軽皇子の乳母橘三千代や藤原不比等の後援もあったのだろう。天武朝の宮廷歌人として草壁皇子や軽皇子に仕えた舎人人麻呂の喜びもひとしおであったに違いない。持統天皇3年ころ安騎野に狩した軽皇子に供奉し、人麻呂は詠う。
八隅しし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせずと (ふと)しかす 都を置きて こもりくの 初瀬(はつせ)の山は 眞木立つ (あら)山道を 岩が根の しもと押し並べ 坂鳥(とりさか)の 朝越えまして 玉限る 夕さリ来れば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) (しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせず (いにし)へ思ひて 万葉集(巻1雑歌45)