京都
閑話百題−釣りと人生−
 20年ほど前の夏の夜、千葉県の君津海岸の堤防でクロダイ釣りをすることがあった。この日はまったく当たりがなく、テトラ脇の防波堤を移動してポイントを探していたとき、誤って他人の餌箱につまずき、餌箱が海中に沈んでしまった。ヘッドライトを着けてはいたが、夜間のことであり足元まで十分注意が行き届かなかった私の不注意からであった。
 私は腰に下げていた餌箱ごと袋イソメを差し出し、許しを乞うた。釣り人は二十歳を少し出たくらいの青年であった。餌にこだわる釣師の心情は私自身よく理解していたが、動転してしまい青年が使っていた餌を確認しないまま餌を差し出し青年の顔色を覗き込むのだった。しかし、青年は、「人の歩くところに餌箱を置いた私が悪いんです。気にされることはありません」と、すがすがしく言い放ち、差し出した餌も固持したのである。私はこのときほど猜疑心に凝り固まった我が身のつたなさを恥じ、またこの国の青年の健全さをうれしく感じたこともなかった。今でも青年の顔をよく思い出すことがある。−平成22年2月−