京都
京の街角(光悦垣)−京都市北区鷹峯光悦町−
 京都の鷹峯に光悦寺という寺がある。本阿弥光悦の死後、その邸宅が寺に転用された。
 このあたりは丹波、若狭に通う幹道が走っていて豊臣秀吉など時の為政者は当地の周辺に土塁を築くなど洛中防御に気配りを怠らなかったところ。本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯に約9万坪の広大な土地を与えられ、一族を率いてここに移住し、いわば芸術村を築いたのは元和元(1615)年だった。光悦は書や陶芸、絵画、蒔絵、茶の湯、刀剣鑑定など諸分野に秀でた作品群を残した芸術家。特に書や手捻りの陶芸に高い芸術性を発揮した人物。後世の芸術家に計り知れない影響を与えた。
 光悦の茶の湯の師匠は古田織部、俵屋宗達は光悦に見出され才能を発揮した人物である。光悦は人材育成にも手腕を発揮したと言ってよい。
 光悦垣も彼の才能を表出させた作品群の一つであろう。鷹峯三山(鷹ヶ峯、鷲ヶ峰、天ヶ峯)に対峙するように、光悦の芸術村(光悦寺)は、小高い丘陵地の斜面に大虚庵、三巴亭、了寂軒など7つの茶室が散在する。茶の湯に励んだ光悦ゆえ存命中からたぶん幾つかの茶室が存在し、いわゆる光悦垣(写真)が設けられていたのだろう。斜めに竹を組み、緩やかなカーブを描く竹垣は四つ目垣や矢来垣などにないやわらかさがある。鷹峯三山と対峙しても少しもとげとげしさがなく風景に溶け合っている。この竹垣を光悦作と特定できる記録はないが、光悦作と考えられるほど良い雰囲気で客人を茶室へといざなうのだ。 クマザサが一層、光悦寺の清浄さを際立たせている。

 本阿弥光悦が徳川家康から当地を賜った経緯について諸説ある。家康が芸術家・光悦に対し、敬意を払って与えたと考えられる。一方、当地を与えられた元和元年は、光悦の茶の湯の師・古田織部が家康のために自害させられた年に当たる。十字架やマリアを具象化した織部燈籠で知られるように、古田織部はキリシタンと関わりを持った人物とみられ、疑惑は織部を茶の湯の師匠とした光悦にも向けられた可能性も否定できない。家康は書や作陶、刀剣の鑑定等を通じ、武将や各界の著名人と交友する光悦の影響力を危惧し、一族、工匠等もろとも当地に封じ込めたと考えることもできるだろう。−平成20年2月−