京都
八十宇治川−宇治市−
もののふの 八十宇治川やそうじかはの 網代木あじろきに いさよふ波の 行くへ知らずも  <万葉集 柿本人麻呂>         
 宇治川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。途中、桂川と木津川に合流し淀川をなす。
 宇治川は、三川中、最も安定的な水源である琵琶湖と下流の大消費地を繋ぐ河川である。その流量は常時、瀬田の「洗堰」において、琵琶湖の水位をにらみながら放水量が調整されている。府県間の利水のみならず堰は治水の調整機能も担っているわけで、しばしば府県を越える水系管理の象徴的存在として語られてきた。
 また、宇治川は陸上交通において、奈良と滋賀、京都間の往来に必ず越えなければならない河であり、しばしばもののふが生死を争う戦場となることもあった。旅人はその往来のみちすがら、網代木をしばしば目にしたことであろう。
 人麻呂の標記の「もののふの八十宇治川・・・」の歌は壬申の乱によって滅亡した近江朝の悲哀を背景にして、飛鳥への道すがら、官人らのぼんやりとした不安を宇治川のいさよふ波に託したものであろう。歌に網代木を絡ませることによってその寂寥感が増幅され、そこにも人麻呂の演出のうまさがある。宇治川(瀬田川)の上流に所在する石山寺の縁起絵巻に網代木がみえる。今日のヤナと思われるが、大阪湾から琵琶湖に遡上したアユが降下する9月から10月にかけて網代木は稼動し、アユを捕獲していたのであろう。宇治川は往古よりいわゆる落ちアユの捕獲に網代木が盛んにしかけられた川であった。杭まわりでいさよふ波はなんともさみしい。それは人麻呂の無常の感慨というような悠長なものでなく、舎人或いは采女が近江朝の残影を感じつつ処遇の行方もわからないまま飛鳥に向かう不安とさみしさであったにちがいない。作歌の季節はヤナの仕掛の時期を考えると冬とは思われない。秋口と考えるのが自然だろう。
 人麻呂の官位や八十宇治川(氏河)など近江縁の作歌の時期について、真淵以来、相当の幅がある。八十宇治川ひとつとっても天武12(682)年ころから大宝元(701)年ころまでの幅がある。人麻呂の活動期間を十数年とすると八十宇治川を天武年間にまで繰り上げるのは具合がよくないと思うむきもあるだろう。壬申の乱を制した大海人皇子が大津京から飛鳥浄御原宮に移ったのは天武元(672)年の冬である。たぶん人麻呂は、その足跡から庶人から登用された東宮の舎人ほどの人物と考えられられるが、公務により近江に向かったものか、本居を近江においていて休暇時期に飛鳥方面に向かったものか、近江の親族を訪ねたものか、歌を詠んだ時期を含め作歌環境に全然確証がないけれども、この歌に込められた・・・いさよふ波の行くへ知らずも・・・という近江朝滅亡による官人らの遷ろう不安を思えば滅亡からそれぼど遠くない時期に詠まれたものではないだろうか。人麻呂の活動期間につき、官人の人事諸制度や実際の運用を含め不詳のところもあり、人麻呂のそれがわずか十数年と鵜呑みにすることもないだろう。むしろ天武12年を遡る作歌であったとしても何の不思議もない。
 今日、宇治川に網代木を見ることはない。チャラ瀬で鵜やアオサギ、シラサギがひねもす魚影相手に生死を争っている。時の流れが網代木を水鳥にかえたわけだ。しかし水鳥に人麻呂の不安とさみしさはない。−平成20年12月−