京都
ギリヤーク尼ケ崎の大道芸(丸山公園にて)−東山区円山町−
 5月3日、粟田口に杖を曳き青蓮院門跡、知恩院を過ぎ丸山公園にたどり着く。太陽が日傘(日暈)をさし、ほどよく日ざしが加減され絶好の散策日和。公園の緑も一層輝いている。
 公園に入ると左手に瓢箪池。その周りに人だかりがみえる。通りがかりの人に尋ねると「ギリヤークが踊るらしいですよ。」とのこと。待つこと小一時間。 
 池の脇から登場したギリヤークさんの風体は大分、変わっていた。長髪を束ね白塗りの化粧。老いさらばえて創痍の体。擦り切れて穴のあいた三味線を抱え、車いすに乗って現れた。
 路上に立ったギリヤークさんは背を丸め、立ったまま踊りだそうとしない。しばらくして僕は・・・・と切り出した。ぼそぼそと生い立ちを語りはじめる。両親に嘘をつき北海道から東京へ出た自身の生き様を吐露する。親から仕送りを受け、遊び呆け、夢を果たせなかった生活ぶりを5分、10分としゃべり続ける。群衆はいらだち、「早く踊ってよ」とやじる者も・・・。それでもやめない。
 気が済んだのかしゃべり終えると、ギリヤークさんは都
合3曲踊った。終いは「念仏じょんがら」だった。腹ばい、もがき、半身を起こして大きな数珠を振り回し、バケツの水を頭からかぶって踊り終えた。
 惜しみない拍手が続く中、観衆はティシュをねじり或いは裸の銭を路上に投げ入れる。
 一時して、一人また一人、ギリヤークさんをねぎらい、しゃべりかける者、肌に触れる者などで人の輪ができる。「京都に来てよかった。」とギリヤークさん。華頂山山麓にギリヤーク演劇の余韻がいつまでも漂っているようだった。
 平安時代末の天変地異は末法の到来を予感させた。王侯貴族や庶民に至るまで生きるすべを失いかけ、ひたすら極楽浄土への往生を願った。比叡山から下りた僧侶の説法が辻々から聞こえる。みなが迷い生きるすべを失いかけたとき法然や親鸞などが現れ新教団を率いるようになる。
 畢竟、私はギリヤークさんの踊りに説法を聴くような宗教的雰囲気を感じてしまった。路上パフォーマンスの会場となった円山公園の北に天台系の巨刹が2つある。知恩院と青蓮院門跡だ。知恩院の開祖は法然。比叡山を下りて浄土教を興した人。青蓮院門跡(天台宗)は比叡山青蓮坊からでた行玄大僧正が興した。いずれも比叡山を下りて仏道を説いた巨傑。天台宗は浄土教を否定せず総合仏教を自認する宗教界の巨像
 ギリヤークさんは自身の大道芸を披露する会場として円山公園ほどふさわしいところはないと決断したに違いない。踊り終えて「京都へ来てよかった。」とつぶやいたギリヤークさん。
 3曲目の「念仏じょんがら」は曲名や踊りから観る者になんとなく浄土教の教えを意識させる。比叡山(天台宗)は浄土教にも寛容である。円山公園でのパフォーマンスは今日で2度目という。パフォーマンスにも大いに力が入ったことであろう。私はそのように思ってやまない。

 洋の東西を問わず苦しみから救済されたいと願う宗教心は「懺悔」から芽生える。ギリヤークさんの踊り始めの‘ぼそぼそ’は懺悔のそれではなかったか。懺悔を織り込み、往生までの過程を解釈し、踊りに爆発させたに違いない。バケツの水浴びはもがき苦しむ現世からあの世での極楽往生を願うハザマ(結界)の演出に違いない。即身成仏をおもいながら踊ったに違いない。だからこの曲は「念仏じょんがら」なのだ。
 私はギリヤークさんを全く知らない。実演を初めてみたが、それは聖人が庶民にする説法劇ではない。法然、親鸞でも行玄でもない。庶民・餓鬼から見た現世と来世の解釈を救済対象たる自らが解釈し、演じて見せた稀有な演劇だった。
 繰り返そう。ギリヤークさんは大病を患い体の自由が利かない90歳余の我身を踊りに爆発させる。開演冒頭の語りは踊りに不可欠な懺悔。それはギリヤークの辻説法の演出の始まりで終わりなのだろう。機会を得てもう一度、観劇したいものである。 −令和5年5月3日−