京都
宇治橋と橋寺−宇治市−
 宇治川は京都防衛の要害の川であると同時に、宇治川に架かる宇治橋は大和と京都を結ぶ陸運の重要な橋であり続けてきた。柿本人麻呂や藤原道長が目にし、渡ったであろう宇治橋は、文献とその架橋記念碑を伴う最古の橋である。宇治川近くに放生院の俗称で、或いは常光寺とも称する橋寺がある。宇治橋と同時に創建された寺と伝えられ、同寺に架橋碑の三分の一ほどの断石がある。架橋碑ははじめ橋の近くに建てられていたのであろうが、水害その他の災害によって破損し橋寺で保管されてきたようである。
 幸い、断石に刻まれた碑文が歴代帝王編年集成に記録され、また架橋の記事が日本霊異記や続日本紀などにみえる。碑の銘辞は四言二十四句からなり、架橋の経緯や架橋者などの記述がある。今の橋寺の断石(写真下)は、そのような資料をもとに寛政年間に小林亮適らが断石に三分の二の石を継ぎ足して補刻したものである。橋寺の境内の一角に覆屋を設け収蔵されており、拝観できる。
 碑文によれば、宇治橋は道登法師によって大化2(646)年に架橋されとしるす。日本書紀に仁徳天皇のころ猪甘津に橋が架けられた記録がある。たぶん、大和川の付替えが行なわれる以前、難波津に流入していた百済川の河口部の橋かと思われるが所在を示す資料がなく詳細は不明である。その碑文や文献から立証できる宇治橋がわが国最古の橋であろう。
 ところで、宇治橋の架設者について断石は道登としるす。一方、続日本記は元興寺(飛鳥寺)の道照(道昭とも書く)としるしている。続日本記は文武天皇4(700)年3月、道昭死去に伴い大部の紙面をさきその功績をしるし、宇治橋の架設者を道昭に特定しているのである。道昭は玄奘三蔵につき学業を修め、始めて禅定(座禅)を学び、火葬に付された本邦最初の人である。河内国丹比郡の人で俗称は船連(ふなのむらじ)、百済系渡来氏族であり、飛鳥から白鳳期には野中寺(やちゅうじ)の住職を務め、道昭もその一人。父は小錦下(天智3年制定の冠位、従五位下相当)の恵釈(えさか。恵尺)である。恵尺は蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で暗殺された翌日、父の蝦夷(えみし)が国記などを焼こうとした時、火中より国記を救い出した人物である。さらに、宇治橋のすぐ上流の浮島に十三層石造大塔(十三層石塔婆。写真下)が建っていて、同塔婆の碑文は・・・最初元興寺僧侶道登道昭建立之其後・・・とあり、宇治橋の架橋者として道登、道昭の両僧を併記している。大塔は弘安9(1286)年に南都西大寺の叡尊が宇治橋の修築を行なった際、橋供養のためこれを建立したもの。橋の略歴をしるした碑文中に架橋者は道登、道昭の両名としているのである。大塔はかつて被災し河中にあったこともあってか銘文の損傷が著しく、塔前からまったく文字の存在すら確認できない。この碑文の拓本中に宇治橋の架橋者を道登としるしたものが存在するようであるが、私はその拓本を見たことがない。宇治橋の架橋をめぐり古来、論争が絶えない。私は道登、道昭がともに元興寺の僧侶であったことに起因する混乱ではないかと思う。宇治橋が架橋された大化2年は、ようやく大化改新の詔が下され、百官の位階が設けられた歳だ。クーデター後の詔について、その内容の信憑性等につき諸説はあるものの、班田収受などを通じてようやく国の税収基盤が整いはじめたころであり、資金や技術力の諸点から宇治川架橋のような大規模プロジェクトの推進には幾多の難問が存在した。当時、道昭がでた河内は先進技術を有した渡来人が多く住み、建築土木方面の技人が集中していた。道昭など渡来系氏族の頂点に立つ者の同族への支配力は絶大なものがあったであろう。後年の行基もやはり渡来系の仏道者であり、道昭を師として諸国に架橋やため池の築造等を施した人である。大寺に属し技人の動員力等を有した道昭こそ宇治川架橋の功労者と推認できるであろう。しかし、道昭が起居した元興寺において、道登は年齢等におい道昭に長じていたから、元興寺が宇治川架橋を奉じ事業を進める際、道登も関与したことが十分に考えられるのである。そうすると、宇治川架橋は、道登、道昭二人の力によって成し遂げられたと考えることもできるだろう。−平成19年4月−

現在の宇治橋
宇治橋断碑(橋寺) 十三層石造大塔