京都
丹後の上野家住宅−舞鶴市西方寺−
 舞鶴市の山間に西方寺という地区がある。由良川の支流岡田川流域に開けたところ。藩政期には丹後田辺藩(加佐郡内3万5千石)に属した。田辺藩は藩主牧野英成のころ大いに威勢を発揮し、享保3(1718)年に寺社奉行、同9(1724)年には京都所司代に栄進したことが有徳院殿御実記などにみえる。
 西方寺は由良川の左岸域に在って、穏やかな雰囲気が漂うところ。そこで代々大庄屋を務め、養蚕など農業を営んだ上野家住宅がある。主屋は茅葺の入母屋造り、桟瓦葺きの下屋を四周に巡らせてある。中2階の造りで2階は蚕室として使われたのだろう。鬼瓦に天保15(1844)年と弘化3(1846)年の記銘があり、築年はその頃と思われる。書院庭園を附置し、邸内に長屋、マヤ、土蔵を配置し、道路面に土塀が設置されている。主屋はニワ(土間)の続きに田の字に4室を配置する。ニワの手前から板張りのクチノマ、ダイドコが左右に並び、その奥にザシキとヘヤ(ナンド)が並ぶ。後年、ザシキの奥にカミノマが増築され上野家特有の間取りになっている。この4間取り型の古いものに山本家住宅(大阪府河内長野市)がある。同家の築年は17世紀末とされ、庄屋住宅である。このころから漸次、田の字型間取りの住宅が日本家屋の主流として発達し、必要に応じ改造等によって間取りの工夫がなされるようになったのだろう。さらに上野家住宅においては、マヤが主屋から独立し別棟となっている。ニワに厩舎であるマヤを設けるのが藩政期以降の一般的な農家住宅であるが、上層農家では別棟に造るものもあったのだろう。−平成21年3月−