京都
顔見世(南座)−京都市東山区四条大橋東−
顔見世を見るためかせぎためしとか <虚子>
まねきの掛かった南座
櫓に立つボン天
 「京都の師走は顔見世から」の言葉は今も生きている。顔見世は四条大橋東の祇園社参道の傍らに立つ南座で行なわれる。
 南座は元和年間(1615〜1623)に興行を許可され、今では京都で唯一の歌舞伎劇場。
 虚子翁は、京都人は顔見世を見るために稼ぎ貯めするのだと句によんでいる(標記)。顔見世はもともと11月に新しい顔ぶれの役者で興行したところから生じた名称。芝居正月といわれた。
 戦前、京都人は紋付の羽織を着て顔見世に行ったという。昨今は普段着の人も多く、また芝居の鑑賞態度につき何かと注文をつけ、歌舞伎は東京で見るに限るなどと口やかましい自称歌舞伎通もいる。
 京都は歌舞伎発祥の地。永禄年中(16世紀)、出雲大社の巫女の阿国が祇園社南門の傍らで一種の歌舞を演じて都人の喝采を博して以来、四条河原や縄手四条等々に芝居小屋が建ち、藩政期には7座に達し盛大を極めた。当局の厳しい取締を受け、明治維新のころには四条通りの南北に2座残すのみとなり、やがて北座は火災により廃絶、以来南座1座となり今に至っている。
 今の南座は大正期の建物を昭和4年に改装したもの。桃山風の破風造り(鉄筋5階建て)。収容定員は1500人。日本最古の歴史と格式を備え、役者なら誰もがあこがれるヒノキ舞台。
 京都人は役者の技量を鋭く見抜く。役者もまた、その演技に京都人の目が気にならないはずがない。東京の芝居の値段は顔見世で決まると、さらっと言ってのける京都人もいる。歌舞伎役者は、奈良の興福寺南大門跡で競演する各座の能役者に似た緊張感を感じるに違いない。

中村勘三郎の逝去に接して
 今年の顔見世に中村勘九郎、中村七之助が出演している。二人の父親・18世勘三郎が急死し、二人は辛く悲しく非情の運命を共有しているはず。しかし舞台は上出来で、惜しみない拍手に包まれた南座。観客に感想を聞くと、’ええ芝居をみせてもらいました。中村屋も安泰ですな。’と京都の人。 
 勘三郎はもともと山城(京都)から江戸に下った猿若(中村)勘三郎の名跡。春興鏡獅子は中村屋の十八番。世界的となった曲にあわせて舞う。亡くなった勘三郎の舞は誰もが認める舞踏の白眉だった。
 寛永元(1624)年に一座を旗揚げし、明治初年まで代々、ほとんどの勘三郎が役者兼座元(興行権者)を堅持して一座を切り盛りし、この面でも中村屋は異色の一座だった。平成中村座を立ち上げた勘三郎の心意気は芸でも経営でも発展し続けた。ファンを魅了してやまなかった名人役者は桜の花のように散って逝った。勘三郎こそ江戸の華。江戸っ子の支持も又絶大だった。日常でもいつも人の泣き笑いの聞こえるところから離れられない人だった。(参考:中村勘九郎のこと)−平成24年12月−