京都
人麻呂の風景(南山城)−宇治市、城陽市、八幡市、久御山町等−
白鳥のさぎ坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを
                            (万葉集 1687)
開木代やましろ(山背)の来背くぜ(久世)の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ                (万葉集 1286)   
 京都府の行政区画は古くは山城、丹波、丹後の3国から成り、山城は京都市以南の国(地域)だった。山城は、‘山背’と表記された。大和の背(平城山の北側)に当たるので、‘山背’とに呼ばれたという説がある。
 万葉の時代、奈良から近江への往還は、奈良坂を越え山背の木津川を渡り、川を左手に見て京都盆地の東側の街道(大和街道)を行き、山科から近江に入るルート。
干拓前の巨椋池(案内板から
引用)
久世神社(城陽市)
往還の西側には‘巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田居に雁渡るらし’と詠われた巨椋池(写真左)が広がっていた。旅人は往還からこの巨椋池を西に見ながら旅したわけだ。
 万葉集所収の詠歌の分布をみると、京都では大和街道沿いの特に、南山背を詠ったものが圧倒的に多い。御所のある北山背や長岡京が営まれた西山背を凌駕する約50首が南山背が絡む詠歌である。それは、壬申の乱によって都が近江から古京・飛鳥に戻る時期の歌が多く、柿本人麻呂の活躍期に一致する。東宮の舎人ほどの官人であったとみられる人麻呂が何かの事情からしばしば飛鳥と近江を往来したことの証でもあるだろう。さらに、飛鳥から近江間は到底、1日の旅程ではなくまた、律令期の旅費規程が相当鷹揚かつ柿本氏と同族のワニ氏が山背に勢力をはっていたことと無関係ではなく、しばしば久世辺りに逗留することがあったのかもしれない。
 人麻呂は詠う。‘山代(山背)の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり(万葉集1707)’ 鷺坂は久世神社(写真上)の傍らにある。このほか、鷺坂を読んだものが2首ある。‘白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを’ ‘栲領巾の鷺坂山の白つつじ我れににほはに妹に示さむ’ 特に、1首目の歌は、「・・・久世の鷺坂」「・・・春は張りつつ秋は散りけり」と詠じ、まことに目出度く、ワニ氏の久遠の繁栄を願う気持ちが滲み出て、高揚した人麻呂を髣髴とさせるものがる。
 別歌に冒頭の旋頭歌‘山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ’がある。「草な手折り」と二度繰り返し、社叢の禁忌が存在し、歌謡が存在したことを窺わせる。久世神社は式内社ではないけれども南山背のシンボリックなヤシロとして謳いあげられている。それほどこのヤシロは久世の要だったのだろう。 
鷺坂(城陽市)
 鷺坂を後にして府道69号線に出て北(京都方面)に向かうと宇治市街に入り近鉄奈良線大久保駅前。少し高台になっていて西側の坂を下ると自衛隊大久保駐屯地。駐屯地南側に西に向かって名木川と呼ばれる流れる水路がある。もともと北に流れていた川の流れを西に切り、造られた水路である。したがって現在の名木川は古代のそれではない。
 この辺りも律令時代の久世郡内。郡内は久世、栗隈、那羅(なら)、水主(みずし)、那紀(なき)など12郷。栗隈は仁徳期、推古期に「栗隈の大溝」が掘削されたことが日本書紀にみえ、名木川は那紀(なき)に因む名称。那紀郷内を流れる河川であったのだろう。この名木川を詠った歌が万葉集に5首採られ、いずれも人麻呂歌集からひかれている。
 久世郷内の那羅は、木津川左岸に所在する現在の上奈良、下奈良である。奈良時代には皇室の山背菜園が営まれ、平城京への野菜の供給地だった。長屋王の邸宅跡から荷札木簡からその存在が確認され、話題になったことがあったのでご案内の通りである。上奈良の式内社御園神社(八幡市)がその名残を示している。菜園の運営に当たった氏族の産土の社であったのだろう。
 しかし、現在、栗隈、那紀両郷の地名が消え栗隈大溝や古代の名木川の所在が分からなくなった。名木川の所在をたどるためにもここで改めて、名木川の詠歌5首を揚げておこう。いずれも柿本人麻呂詠歌集に所収の歌である。
名木河作歌二首
あぶり干す人もあれやも濡れ衣を家には遣らな旅のしるしに            
(万葉集 1688)
あり衣辺につきて漕がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり           (万葉集 1689)

名木河作歌三首
衣手の名木なきの川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか
                            (万葉集 1696)

家人の使ひにあらし春雨の避くれど我れを濡らさく思へば

                            (万葉集 1697)

あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを真使ひにする
                        
 (万葉集 1698)
 万葉集中の名木川の所在について、未だ論争が続いていて確定されていない。名木川を往古の北川とする説、北川を名木川・栗隈大溝とする説、古川を名木川とする説、往古の名木川は流路の遷移によって消滅したとする説等々である。現在の名木川は既述の通り近年の付替え河川であり、これを古代の名木川とする者はいない。
 昔の久世郡は那羅郷に山背菜園が所在したように平城京等の大消費地に近く野菜の供給上、非常に重要な田園地帯であったかと思われる。栗隈大溝はそうした久世郡の地勢等を考えると灌漑用水路であった蓋然性がある。しかし、識者の中には名木川は畑地開発に必要な灌漑用水路であり、排水路たる古川は名木川ではないとする者がいる。現在の古川は累次にわたり改修が行われてはいるが、紛れもない排水路である。加えて昭和30年代の地図を見ると、消滅したかなり大きな河川流路の痕跡があり、流路の痕跡の一部に古川が重なっている。河川の切り合いから古川の方が新しく、地図上、痕跡が確認できる河川が名木川であると推する者がいる。このように、名木川の比定はまったく混沌としている。
 柿本人麻呂歌集から、名木川は木津川、宇治川、桂川と同様に巨椋池に流入する河川であったことが判り、巨椋池に入った通船は名木川を遡って大和街道往還に出る交通路にもなっていたものと推される。また、これら河川が流入する巨椋池は京都湖の名残りのような湖沼であり、すり鉢に水を貯めてたような形状だった。巨椋池の周辺地帯はしばしば洪水を引き起こすやっかいな湿地帯をなしていた。したがって、特に古代においては、野菜の栽培可能な田園とするためには、湿地を乾田化する必要があり、栗隈大溝は当に湿地を乾田に変える事業として仁徳・聖武期に二度にもわたって実施されたと考えるほうが自然である。私は、地図上に痕跡を残す河川跡は、巨椋池デルタにおける木津川の1支流であったのではないかと思う。古川はその上に築かれた大溝ではなかったか。
 さらに、往古には式内社旦椋(あさくら)神社が古川の近くに所在(後年現在地に遷座)したことを思うと、古川こそ古代の栗隈大溝でありかつ、名木川であると私は考える。
 春の日、古川(写真下)の土手に立ってぼんやりと川を眺めていると、旅人を乗せ春雨に煙る川面に竿さし、ゆるりゆるりと遡る一艘の小舟の幻影が見える。旅人は巨椋池をゆきこの栗隈大溝をゆき大和往還に向かったのだ。−平成26年3月−

古川(宇治市、久御山町)