京都
普甲峠の石畳道−宮津市小田−
そのかみは 幾世経ぬらん 便りをば 千歳もここに まつのおでら
                      (西国三十三所札所松尾寺御詠歌)
 宮津市の南部に小田という旧村がある。そこは、古来、細川藤孝(幽斎)や京極高知が領した丹後の中心地から丹波の何鹿郡或いは天田郡を経て、京・大阪、東国などに通づる間道の要地であった。藤孝の嫡男で田辺藩主細川忠興やその夫人ガラシャも杖を曳いたであろう普甲山に刻まれた間道は、また近江の宝巌寺(30番)から若狭路に杖を曳き、丹後の松尾寺(29番)、成相寺(28番)へと逆打ちし、播磨の圓教寺(27番)に向う西国三十三所の遍路路として利用された。
 関が原の後、忠興が小倉に転封され、京極高知が当地を領すると、高知は小田村金山から南下し寺屋敷を経て普甲峠に至る道を、岩戸を経て普甲峠に至る今の府道に沿うルートを開発し、街道のショートカットを図っている。その意図するところは、たぶん関が原の戦において、細川藤孝が徳川家康方につき西軍1万5000人の猛襲を受け、よく知られた逸話のとおり後陽成天皇の仲介を得たものの、田辺城の開城やむなきに到った藤孝の失態を教訓として情報伝達ルートの改善を図ったものではなかろうか。
 今、山中のところどころに石畳ガ残る道は、実に険しいものである。平時は里人の生活道路として或いは遍路道としてこの道は使われたのだろう。苦難を察して余りあるものがある。金山の路傍に建つ「西国三十三所処供養塔」、「廻国供養塔」、「庚申塔」などの供養塔群(写真下)は、そうした旅人や里人が道中安全や報謝を発願した証。庚申塔は自然石に二条線を刻んだ板碑形が刻んである。この地方では珍しいものである。−平成22年1月−

青葉山を望む 金山の供養塔群