京都
宗円と高遊外−綴喜郡宇治田原町湯屋谷−
 
  茶宗明神社
 
煎茶元祖地の碑
 大阪から信楽街道(国道307号線)を行き、宇治田原町岩山の信号を(T字路)を越え、道なりに3キロほど行くと、右に折れる脇道がある。道なりに進むと、谷間に沿うようにして湯屋谷集落がひらけ、ひんやりとした冷気が漂う。そこは鷲峰山北麓に当たり北大峰修験道の登り口に通じ、和銅年間に温泉が発見され湯屋ができたといわれる歴史のある土地。梅雨時期には山際に咲くササユリが美しい。
 谷川沿いに湯屋谷の集落を行くと、谷が押し迫った最奥部に「茶宗明神社」がある。祭神は永谷宗七郎宗円。神社手前に、煎茶元祖地の碑が建ち、少し上ったところに宗円の生家(茅葺住宅)が佇む。宗円は茶の製法を改良し、日本人に喫茶の風を植え付けた功労者の一人である。
 わが国への茶の伝来は遣唐使て或いは栄西など僧侶によって中国から移入され、茶の木が栽培されわが国に喫茶の風が浸透し始めた。しかし、当時の喫茶はまだ一般的ではなく、薬用として或いは寺院の修法や僧侶の精神修養、貴族や武士を含む上層の嗜みとして行われていたようである。また、その製法も茶葉を蒸し乾燥させた碾茶を臼で引いた抹茶であった。漢方薬の扱いと似ている。したがって、喫茶自体には濃茶か薄茶によって練ったり点じたりするくらいのバリエーションしかないが、しだいに立ち居振る舞いの作法や茶苑、茶道具、掛け物、茶花などの総合芸術たる茶の湯に昇華されていく。客人が掛け物の前に座って言葉をつげないようでは茶席の入り口でひっかかり、わびさびも共有できないというものだ。茶の湯は庶民にはなかなか近づきがたいものだった。
 奈良の古寺では住職交替の際の引継書に茶道具を盛るところもあり、昔から茶の湯は寺院の重要な習慣のようである。奈良に西大寺という古刹がある。弘安年間の蒙古襲来の際、叡尊は境内鎮守の八幡社頭において献茶の儀を報賽し、大衆に茶を振舞ったがその数が余りにも多いので大茶碗を用いたという。蒙古軍が退散し、北条氏の軍監が帰路、西大寺に謝儀のため立ち寄り興正菩薩の饗応を受けた際、大茶碗を前にして「蒙古十万の大軍には恐れなさざるも西大寺の大茶碗には閉口せり」と嘆声を発したとされる。今日の土の火鉢のような大茶碗の外周は1メートル余、頭半分を茶碗に埋めた軍監の顔が浮かぶようである。このように西大寺においては、13世紀には特志の者に茶のサービスを行っていた様子が窺われるが、庶民には喫茶はまだまだ遠い習慣だった。
 しかし、茶の本家中国では次第に碾茶が廃れ、明代に入った14世紀ころから煎茶が飲まれるようになる。煎茶のわが国への伝来は諸説あるが、私は承応3(1654)年に中国から渡来し、長崎の興福寺(唐寺)でしばらく住職を務めた後、京都に入った隠元禅師ではないかと思う。もちろん長崎はわが国唯一の開港で毎年、100艘もの中国船が入港していたから在留中国人の間に煎茶が伝わっていたとも考えられるが、隠元禅師はそれを京洛に持ち込み、宇治黄檗宗万福寺を拠点にして中国野菜など食材の栽培法や製茶、喫茶法などの普及にも努めたのだろう。
 時代は遷移しやがて茶の湯に利休が現れ、家元制が創出されるなどして町人層にまで抹茶が溶け込みはじめる。その普及につきなかなか抹茶に追いつけない煎茶は茶の木の栽培や製法が難しく、いわゆる緑茶の完成には永谷宗円(延宝9(1681)年生)を必要とした。宗円は十数年の歳月をかけ、良質の茶の芽を摘み、湯で蒸し、手で揉み、‘ほいろ’で乾燥させ、味・香ともに良い茶の製法(製煎茶法)を元文3(1738)年に編み出したのである。実に隠元以来百年の歳月を要し、ようやく煎茶は茶のよい香りとほのかな緑を得たのである。今日、煎茶(緑茶)の製造は機械化され大量生産が可能になったが、製法の原理や工程は宗円のそれと変わらない。宗円は独力で販路を開拓しその普及にも発奮したが、煎茶喫茶の風がわが国に定着するまでには、‘高遊外’(延宝3(1675)年生)の出現を待たねばならなかった。売茶翁と呼ばれた遊外は佐賀市蓮池町の生まれ。幼くして宇治黄檗宗万福寺の末寺竜津寺(佐賀市内。跡地に高遊外顕彰碑あり)に入った後、師とともに本山万福寺を訪れたり、東北、北九州などを托鉢行脚するなどして青・壮年期を過ごし、長崎で清人から煎茶を学んだとされる。本山万福寺に上ったときはすでに57歳であった。当時、万福寺は煎茶でも本山。遊外の本山での生活ぶりについては不詳であるが、寺に4、5年居て元文元(1736)年ころには茶道具を担ぎ、京都市中の路上でいわば喫茶店を開き、煎茶を売る商売をはじめている。遊外の心中を知る由もないが、長い遊行(歩行禅)のなかから庶民の喜捨を糧にするわが身への疑念から物を売り、客との問答によって善のこころを伝えることを欲したのだろう。商売を始め数年後、遊外は湯屋谷に宗円を訪ね、緑茶を知る。こうして遊外の路上喫茶店は庶民は無論、京を訪れる文人墨客などにも知られるようになり、今日の煎茶道とともに緑茶喫茶の風が日本人の中に定着していく。
 今日、煎茶の茶の木は宇治田原町や和束町、丹波などで広く栽培されるようになった。煎茶用の茶道具は各種ある。道具がなければ湯をひと肌ほどにして、日常使っている急須や湯飲み茶わんで召し上がればよい。煎茶の入れ方や茶道具、楽しみ方などを知りたい人は、宇治散策の折りにでも、京阪宇治駅前から宇治川の左手沿いに歩くと、茶の普及、PR施設があるので活用されとよいだろう。−平成23年5月−

大福茶のこと

     大福も去年の青葉の匂いかな  〈防川〉
     もったいなや土間にこぼれし王服茶  〈ながし〉

 関西では新年、若水で茶を点じ、梅干しや昆布を入れて飲む風がある。婚礼などの祝儀の折にも用い、福茶、大服茶、皇(王)服茶ともいう。平安時代の中ごろ(10世紀)に空也上人が京都・六波羅密寺においてそれを衆生に振るまったという起源説や、村上天皇が御悩のとき観音の霊夢により六波羅密寺の大服茶を奉ったところ病が癒え、皇服茶或いは王服茶と呼ばれるようになった、等々起源説に諸説ある。いずれにしても相当昔から大福茶は薬用乃至縁起物として飲用に供され、その起源を10世紀とすると碾茶或いは抹茶を飲用したものと思われる。したがって、今日の煎茶に梅干し、昆布を混ぜた大福茶の完成にはなお時日を要し、江戸時代に上層農民等に定着したとみるのが自然であろう。
 関西以外の一般の大福茶飲用の習慣は定かではないが、伊予吉田藩高山庄屋(愛媛県西予市明浜町高山)の後見・田中九兵衛(三浦庄屋)が書き残した「内中年中行事」の要点をまとめた「高山浦幕末覚え書(八) 食の記録」(田中貞雄著 2007刊)によると、@正月元旦から同3日の間、毎日神様を拝んだ後、朝の祝膳の前に、焼味噌をお茶うけにして大福茶を三服、A同様に正月11日(蔵開き)に大福茶を三服、飲用した記録がある。婚礼等祝儀の際の喫茶習慣については同書に記録が見えず確認できない。
 「内中年中行事」が記録された高山庄屋の着任は嘉永2(1842)年。このころすでに、村役人等農漁村の上層において大福茶飲用の習慣があったことがわかる。かつ、大福茶の飲用を正月3が日に限定していることから大福茶が祝膳に添えられる貴重品であったことが分かり、また飲用期間が六波羅密寺における正月の大福茶ふるまい期間と同じであり、興味をひく。京から遠く離れた四国・宇和海の漁村で大福茶飲用の習慣があったことは興味深い。高山は回船で栄えた港町の顔もあり、京大坂など各地の文化を育んだのだろう。−平成23年8月−