京都
太田垣蓮月尼(神光院)−北区西賀茂神光院町−
 うぐいすの都にいでん中やどにかさばやと思う梅咲にけり
 墨染の袖にも梅のかをりきて心げさうのすすむ夜半かな
                           <蓮月>
 神光院の茶所の軒端に今年も白梅が咲いた。それは髄を失い朽ちかけた古木から噴き出した一枝ほどの白梅(写真)である。明治8(1875)年12月、歌人太田垣蓮月尼はこの茶所の庵主として85歳の天寿をまっとうした。
 春浅い日、茶所の土間から不動明王と墨書した大きな提灯の明かりがこぼれ、庭先の井戸(写真)から閼伽を汲む蓮月尼の姿が見えるような錯覚を覚える。土間の左手に三畳、五畳の二間と台所がある。これが、蓮月が終の棲家とした茶所のすべてだ。蓮月は10年余、このささやかな庵で歌を詠み、埴をこね、焼き物は蓮月焼ともてはやされた。焼き物は京土産になるほどだったという。
 蓮月が神光院に入ったのは慶応元(1865)年、75歳のころである。信州の松尾多勢子や筑前の野村望東尼と親交があり、蓮月を勤王歌人とみるフシもあるが、蓮月自身は否定も肯定もせず静かな境涯を淡々と詠ずる和歌が多い。冒頭の1首目などは「うぐいす」と「梅」に志士の残影を感じないでもない。蓮月が神光院に入る前年、池田屋事件において尊王攘夷派先鋒の志士が近藤勇ら新撰組に襲われ斬られるという事件が勃発。政局は混とんとするなか、蓮月は北山の神光院に杖を曳くのだった。翌春のころから江戸、大坂など大都市で打ちこわしが相次ぎ、地方では農民が蜂起し一揆が頻発。民衆の反乱は将軍・大名を核とする近世封建政治の終焉を意味していた。倒幕派は奮い立ち、慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は終に大政奉還の上意を朝廷に提出し、政権を投げ出してしまう。同年12月王政復古が発せられた。いわばクーデターがなったわけである。しかし、新政権の主権者がだれなのか、はなはだ不明瞭なところがあった。もともと大政奉還は土佐藩士の着想であるが、坂本竜馬などは大政奉還後も将軍は新政府に領地を提供するが新内閣の一員に加わる政権構想であったといわれ西郷隆盛とはだいぶ距離があった。竜馬が大政奉還の1か月後の11月15日に中岡慎太郎とともに暗殺された時、犯人は薩摩の西郷か新選組かと噂されたのも当然の成り行きであった。西郷は人を恐れず大胆、西洋人をして何を考えているのかよくわからないと思わせるほど稀有壮大な人物。調整型の竜馬とは思考も処世の基本も異なる。年若い竜馬が当時の政界にどれほどの発言力があったのかよくわからないところも多いが、多分竜馬が生きていて相応の実力を持ち合わせておれば多分、王政復古にはならなかったものと思われる。
 さて、王政復古のその夜、小御所会議で大争論をぶったのは山内容堂である。王政復古と言っても一枚の紙切。天領や大名らが領有する領地はそのままにしておいて、横合いからこれが新政府だといっても通用しないというわけだ。その矛先は薩長、とりわけ薩摩の西郷隆盛に向けられていただろう。こうなると容堂を排するほかはなく、別室に控えていた西郷は岩倉具視に活をいれ、岩倉は短刀を懐に容堂殺害も辞さない体で臨席。やがて容堂の舌鋒も鎮まったという。
 大政奉還のタイミングがあまりも早く、新政府側は王政復古の大号令をかけたものの、いわばこのクーデターにつき徳川慶喜ら旧幕の要人に対し、新政府側の将軍及び幕閣に対する査問、処罰の方針或いは旧態の法制執行の停止など革命的措置を講じ得る準備が全然なく三条大橋、容堂が小御所会議を仕切りかけた様態に一同、反論の機会さえ失っていたのである。そこで、慶喜は大政奉還後も自身が日本の主権者であることを諸外国の公使などに宣言し、なかなかしぶといところをみせ、将軍・大名制の崩壊は戊辰戦争を経てようやく決着したのである。その戦の指揮者は西郷隆盛であった。東征軍が三条大橋(写真左上)のたもとに差しかかったとき、蓮月は短冊に和歌をしたため西郷に手渡した。‘あだみかた かつもまくるも あわれなり おなじみくにの ひととおもへば’ 仏道者らしく中庸の道を西郷に求める。西郷は歌を脳裏に焼き付けて江戸開城等に奔走したという。少しできすぎの感なしとしないが、蓮月の生きざまを思うによいエピソードである。
 幕末の政争の過程において、信州の松尾多勢子、上州の大橋巻子、筑前の野村望東尼ら倒幕派の女性が活躍した。多勢子は豪農・豪商、巻子は豪商、望東尼は下級武士階級の人であった。彼女らは和歌、国学を学び政治に関心を寄せ、勤皇の志士と直接・間接に協力、連携しあって倒幕に関与したのである。望東尼は流刑にあい獄中生活を経てなお討幕に夢を託し、闘争のうちに生涯を終えている。女性に政治への参画が保障されず、社会的にも虐げられた時代において、女性の政治的成長を示した点につきこれら女性の行動は女性解放運動の先覚ともいうべきものであった。蓮月はそうした女性たちと一期一会の親交を拒む人ではなかった。
 蓮月と望東尼はその家庭環境などに類似するところがある。望東尼が蓮月との応接記録を残しているが、政治向きの話をすることもなく、望東尼は蓮月の老いてなお美しい姿にうたれている。神光院に入った蓮月は慈善事業にその生涯を捧げ、望東尼とはまた異なる道を歩んだようである。−平成22年2月13日−